最上家をめぐる人々#4 【最上義守/もがみよしもり】
【最上義守/もがみよしもり】 〜歴代最長期の山形城主〜
最上義光という巨星の光茫に幻惑されて、その父義守の方はとかく目立ちにくいが、その生涯をながめると、さすがは名門大名最上家の主だという感じがする。
永正11年(1514)の春、突如攻め入った米沢伊達稙宗の軍勢に、最上連合軍は1000人以上の死者を出して惨敗、長谷堂城は占領下におかれる。
だが、どうしたわけか伊達側は、翌年、稙宗の妹を最上義定に嫁がせ、長谷堂城を返還して、和平が成立する。ところが、せっかく来たその夫人に子供ができないまま、義定が没してしまい、山形城はいっとき主がいない状態になったらしい。
そこに入ったのが、最上の一族である中野氏義清の次男、まだ幼かった義守である。
たぶん、すぐれた家臣の支えがあったのだろう、義守はその後50年余、歴代最も長期にわたって山形城主であり続ける。
まだ20歳前の天文3年(1534)には、山寺の日枝神社を再建するために、一族とともに協力した。同12年4月から8月にかけては、戦火に荒廃した山寺立石寺に、本山の比叡山延暦寺から法燈を移すために、義守の母が「大檀那」となるが、そのための費用や往復の警固はおそらく義守の配慮があったはずである。
20歳を過ぎてからは、義守の力量は一段と高まったらしい。
1540年前後に伊達領内に争乱が起こったときには(天文の乱)、これに介入して、いったんは置賜全域を制圧し、伊達の争いに睨みをきかせた。また、治安維持のために笹谷峠を越えて出兵もしている。堂々たる戦国大名としての動きである。
永禄6年(1563)、義守は18歳の義光をつれて京都に上り、第13代将軍足利義輝に馬や太刀を献上した。
「六月十四日 しばらくぶりに将軍足利義輝公の邸にうかがったら、ちょうど出羽国の御所(大名のうち特別な家柄のものをこう呼んだ)山形殿父子が来ておられた。父子は、将軍に馬と太刀を献上して御礼を申された。
将軍は二人をもてなす宴会を開かれ、わたしもそこに参席させてもらった。将軍から下された杯を、二人は『かたじけないことです』と言って頂戴した。わたしも深夜までご馳走になり、すっかり酔ってしまった」(『山科言継卿記』)
義守・義光親子が京都に上って将軍に面会したときのことが、たまたま一貴族の日記に記録されていたわけである。
上京した義守は自分の地位や領地を将軍から認めてもらったらしい。当時は実力で獲得した領地も、天皇をバックとした将軍の承認がなければ正当なものとは認められなかったのである。
それにしても「御所」と書かれたり、将軍からこんなに丁重にもてなされたりしたのは、やはり最上家が将軍の親類筋にあたる別格の家柄と見られていたからだろう。
たぶんこのころと思われるが、娘(義姫)を伊達家の若殿、輝宗に嫁がせた。伊達家でも最上家の娘をもらって親戚になることは、都合がよかった。永禄10年(1567)に生まれた男児が、後にその名も高い「独眼竜」政宗である。
晩年は禅に帰依して仏門に入って栄林と号する。たぶん、嫡男義光に領主権を譲り渡したころかと思われるが、まだあいまいな所もないではない。表向きの政治からはいったん身を引いたと推測されるのだが、詳細は不明である。
その後なんらかの問題が起こって、一時期義光と厳しく対立する場面もあった。しかし、この対立は譜代の重臣氏家伊予守定直の諌言によってほどなく融和し、義光が完全に領主権を掌握することとなったようだ。
天正11年(1583)のころに、義守が大病をわずらって危篤状態におちいったことがある。そのとき彼は、義光や義姫夫妻を枕元に呼び、大勢の重臣たちが居並ぶところで訓戒をあたえたという話が、『奥羽永慶軍記』にある。
「今自分が亡くなったなら、義光と輝宗が仲たがいして合戦をはじめるのではないか。これだけが心にかかることだ。最上と伊達がいくさをして、たとえ輝宗が勝ったとしても最上の主人になることはできまい。逆に義光が戦いに勝ったところで、奥州を手に入れることはできないだろう。おまえたちのような小さな大名が、身内同士仲たがいをしたら、他の大名がとくするだけだ。最上も伊達も関東の佐竹や越後の上杉に討たれてしまうだろう。ただし、両家が仲良くしているならば、佐竹・上杉が一つになって攻めようとも、没落することはないはずだ。最上の氏家・志村よ、伊達の片倉・遠藤よ、おまえたちもこのことをしっかり胸におさめて、けっして背いてはならぬ」
ところが、あやうく見えた義守は、医薬のかいあってかほどなく快復する。
八日町浄光寺の伝えでは、日蓮宗の旅の僧日満上人の祈祷が功を奏したとされ、これに感謝した義光が一万坪の寺地と伽藍を建立したのが同寺の始まりだとしている。
義守はその後龍門寺に隠栖し、政治からは手を引いたが、天正18年(1590)5月17日(一説27日)に70歳の長寿を終えた。戒名は後龍門寺殿羽典栄林公。山形城の北、曹洞宗龍門寺が菩提寺である。
この寺におもしろい(?)文書がある。葬送に際して火を下ろすときに唱える「炬下語(あこご)」が、義守のために用意されていたのである。元亀2年(1571)、秋彼岸の日付である。義守が亡くなる20年前のものだ。ひょっとしたらかれは生前葬を執り行ってから、龍門寺に入ったのかもしれない。
義光以前に、約50年間の山形城主として活躍した義守は、最上家繁栄の基礎固めをした傑物だったというべきだろう。
■■片桐繁雄著
最上義光という巨星の光茫に幻惑されて、その父義守の方はとかく目立ちにくいが、その生涯をながめると、さすがは名門大名最上家の主だという感じがする。
永正11年(1514)の春、突如攻め入った米沢伊達稙宗の軍勢に、最上連合軍は1000人以上の死者を出して惨敗、長谷堂城は占領下におかれる。
だが、どうしたわけか伊達側は、翌年、稙宗の妹を最上義定に嫁がせ、長谷堂城を返還して、和平が成立する。ところが、せっかく来たその夫人に子供ができないまま、義定が没してしまい、山形城はいっとき主がいない状態になったらしい。
そこに入ったのが、最上の一族である中野氏義清の次男、まだ幼かった義守である。
たぶん、すぐれた家臣の支えがあったのだろう、義守はその後50年余、歴代最も長期にわたって山形城主であり続ける。
まだ20歳前の天文3年(1534)には、山寺の日枝神社を再建するために、一族とともに協力した。同12年4月から8月にかけては、戦火に荒廃した山寺立石寺に、本山の比叡山延暦寺から法燈を移すために、義守の母が「大檀那」となるが、そのための費用や往復の警固はおそらく義守の配慮があったはずである。
20歳を過ぎてからは、義守の力量は一段と高まったらしい。
1540年前後に伊達領内に争乱が起こったときには(天文の乱)、これに介入して、いったんは置賜全域を制圧し、伊達の争いに睨みをきかせた。また、治安維持のために笹谷峠を越えて出兵もしている。堂々たる戦国大名としての動きである。
永禄6年(1563)、義守は18歳の義光をつれて京都に上り、第13代将軍足利義輝に馬や太刀を献上した。
「六月十四日 しばらくぶりに将軍足利義輝公の邸にうかがったら、ちょうど出羽国の御所(大名のうち特別な家柄のものをこう呼んだ)山形殿父子が来ておられた。父子は、将軍に馬と太刀を献上して御礼を申された。
将軍は二人をもてなす宴会を開かれ、わたしもそこに参席させてもらった。将軍から下された杯を、二人は『かたじけないことです』と言って頂戴した。わたしも深夜までご馳走になり、すっかり酔ってしまった」(『山科言継卿記』)
義守・義光親子が京都に上って将軍に面会したときのことが、たまたま一貴族の日記に記録されていたわけである。
上京した義守は自分の地位や領地を将軍から認めてもらったらしい。当時は実力で獲得した領地も、天皇をバックとした将軍の承認がなければ正当なものとは認められなかったのである。
それにしても「御所」と書かれたり、将軍からこんなに丁重にもてなされたりしたのは、やはり最上家が将軍の親類筋にあたる別格の家柄と見られていたからだろう。
たぶんこのころと思われるが、娘(義姫)を伊達家の若殿、輝宗に嫁がせた。伊達家でも最上家の娘をもらって親戚になることは、都合がよかった。永禄10年(1567)に生まれた男児が、後にその名も高い「独眼竜」政宗である。
晩年は禅に帰依して仏門に入って栄林と号する。たぶん、嫡男義光に領主権を譲り渡したころかと思われるが、まだあいまいな所もないではない。表向きの政治からはいったん身を引いたと推測されるのだが、詳細は不明である。
その後なんらかの問題が起こって、一時期義光と厳しく対立する場面もあった。しかし、この対立は譜代の重臣氏家伊予守定直の諌言によってほどなく融和し、義光が完全に領主権を掌握することとなったようだ。
天正11年(1583)のころに、義守が大病をわずらって危篤状態におちいったことがある。そのとき彼は、義光や義姫夫妻を枕元に呼び、大勢の重臣たちが居並ぶところで訓戒をあたえたという話が、『奥羽永慶軍記』にある。
「今自分が亡くなったなら、義光と輝宗が仲たがいして合戦をはじめるのではないか。これだけが心にかかることだ。最上と伊達がいくさをして、たとえ輝宗が勝ったとしても最上の主人になることはできまい。逆に義光が戦いに勝ったところで、奥州を手に入れることはできないだろう。おまえたちのような小さな大名が、身内同士仲たがいをしたら、他の大名がとくするだけだ。最上も伊達も関東の佐竹や越後の上杉に討たれてしまうだろう。ただし、両家が仲良くしているならば、佐竹・上杉が一つになって攻めようとも、没落することはないはずだ。最上の氏家・志村よ、伊達の片倉・遠藤よ、おまえたちもこのことをしっかり胸におさめて、けっして背いてはならぬ」
ところが、あやうく見えた義守は、医薬のかいあってかほどなく快復する。
八日町浄光寺の伝えでは、日蓮宗の旅の僧日満上人の祈祷が功を奏したとされ、これに感謝した義光が一万坪の寺地と伽藍を建立したのが同寺の始まりだとしている。
義守はその後龍門寺に隠栖し、政治からは手を引いたが、天正18年(1590)5月17日(一説27日)に70歳の長寿を終えた。戒名は後龍門寺殿羽典栄林公。山形城の北、曹洞宗龍門寺が菩提寺である。
この寺におもしろい(?)文書がある。葬送に際して火を下ろすときに唱える「炬下語(あこご)」が、義守のために用意されていたのである。元亀2年(1571)、秋彼岸の日付である。義守が亡くなる20年前のものだ。ひょっとしたらかれは生前葬を執り行ってから、龍門寺に入ったのかもしれない。
義光以前に、約50年間の山形城主として活躍した義守は、最上家繁栄の基礎固めをした傑物だったというべきだろう。
■■片桐繁雄著