最上氏研究前進のために(一)
最上氏研究前進のために(一)
最上氏に関する基本的な文献とされてきたものに、まず誉田慶恩著、日本の武将60『奥羽の驍将−最上義光−』(人物往来社、1967年6月)がある。内容についてはのちに述べるが、この書名は「最上義光」という名前よりも「奥羽の驍将」という題名のほうが大きく目立っている。この本の題名は編集サイドの意向によるものと思われるが、最上義光という戦国武将の名前がまだ一般的ではなかったことを示している。
次にあげられるのが、『山形市史』通史編である。『山形市史』中巻、近世編(山形市、1971年3月)の第一章は「最上氏治世下の山形」であり、「第一節 最上義光の支配」「第二節 改易と転封」「第三節 武将の面目とその文化」から成っている。このなかでは、第一節が中心となることは明らかであり、その執筆者は一部を除き誉田慶恩氏である。
『山形市史』上巻、原始・古代・中世編(山形市、1973年3月)では、「第四章 中世の村山盆地」の「第二節 室町時代と村山地方」のうち、「2 大名領国の展開と斯波氏」「3 館・在家の構造と郷村制」「4 戦国争乱の進展と最上氏」が該当し、これも大部分が誉田慶恩氏の執筆である。『山形市史』上巻の記述は天正18年(1590)までであるが、中巻は天文15年(1546)の最上義光の誕生から始まっているため、両者には最上義光について記述が重なる部分がある。これは、中巻が上巻よりも先に出て、義光について天正18年の小田原参陣や奥羽仕置からではなく、誕生から記述されたことに原因がある。
ともあれ、最上氏および最上義光に関する多くの文献のなかで、最も一般的で多くの人々の目に触れる文献が、『奥羽の驍将−最上義光−』(以下『義光』と略す)と『山形市史』(以下『市史』と略す)であったことは疑いなく、いずれも誉田慶恩氏の執筆になるものであった。したがって、『義光』と『市史』は後世に大きな影響を与えたが、この記述が妥当なものであるかについては問題がある。そこで、以下これを戦国時代を中心として検証していきたい。
永正11年(1514)2月15日、最上義定は長谷堂において伊達稙宗の軍勢と戦い、大敗した。伊達軍は楯岡・長瀞・山辺式部・吉河兵部以下千余人を斬り、長谷堂城を抜き、小梁川親朝を駐留させた。この結果、翌永正12年最上氏と伊達氏は和睦し、最上義定に伊達稙宗の妹が嫁ぐことになる(伊達正統世次考)。誉田氏は「この戦で惣領制的性格の濃い最上武士団の脆弱性が暴露され、最上勢の足なみはまったくそろわなかった」と述べている(『義光』、『市史』上も同内容)。この稙宗による最上攻めは、伊達氏の家督継承後の最初の対外戦争とみられる。いわば、伊達氏において用意周到になされた作戦とみられ、最上側が大敗したことは事実であろうが、最上氏の体質が古く、伊達氏が新しいという見方は一面的と言わざるをえない。
義光が16歳のとき、義守・義光父子が高湯(蔵王温泉)に湯治に行き、鹿狩りをして眠りについたところ、近辺の盗賊数十人が来襲した。義光は近習の者たちの先頭に立って防戦し、二人に深手を負わせ、一人と組み合って刺し殺した。この武勇に義守は喜び、笹刀と称した家宝の名刀を授けたという(最上義光物語)。この真偽のほどは明らかではないが、よく知られたエピソードである。義光が16歳といえば永禄4年(1561)にあたり、『最上義光物語』の作者は、義光が少年の頃から武勇に優れていたことを示したかったものであろう。しかし、誉田氏は「大名親子ともあろうものが野盗の襲撃をうけたとは、最上氏の権勢も疑わしいものである」「当時の最上氏は、まだ豪族の域を脱しない小大名で、近隣の大大名伊達氏の権勢の下に屏息し、辛うじて命脈を保っていた程度であったのであろう」と述べている。(『義光』・『市史』上)。義守の伊達氏天文の乱における戦歴やその後の義光の活躍をみれば、このような評価が当たらないことは明白である。戦国大名に組織されていない野盗の存在は、戦国時代には一般的であり、これをもって小大名と評価することは出来ない。ただし、最上氏側の警備体制に問題があったことは確かである。
最上義光は戦国大名最上氏を飛躍的に発展させた人物であるが、義光による領国の発展過程、つまり歴史的な経緯については問題がある。誉田氏は天童落城について「根本資料がないため、不明な点が多く、落城の年月にも二説ある。『奥羽永慶軍記』『最上義光事歴』は天正5年10月とし、『愛宕社記』『諸城興廃考』『伊達世臣家譜略記』は天正12年10月としている。松尾姫が天正6年生まれと伝えられるところから、近時は天正12年説が有力となった。しかし、天正12年は、義光が白鳥氏や大江氏を滅ぼした年である。同年のうちに谷地・寒河江・天童の三面作戦を行って、一挙に成功したとは考えにくい。また天正九年には義光が最上郡に進出し、強力な庄内の武藤氏と激しく戦っている。義光の領土拡張の経過から考えると、遅くとも天正8年までに天童城は攻略され、村山郡の川東(最上川以東)地域は、完全に義光の領国化したとみるべき」としている(『市史』中、『義光』もほぼ同じ)。さらに、「義光はいつ頃一族を掃討し、村山地方に領国制を確立したかは明確でないが、遅くとも天正8年までには、川東地域をほぼ平定したと推定される」とされ(『市史』上)、推定とはいえ、天童落城を天正8年(1580)と確定している。
しかし、その根拠は、義光が天正九年には最上郡に進出していること、天正12年もうちに谷地の白鳥氏、寒河江の大江氏とともに天童氏を滅亡させたとは考えにくいというものであり、状況証拠にもとづくものであって、確たる証拠があるわけではない。
つまり、旧説のほうが正しいといえよう。天童落城の過程は次のようになる。天正5年義光は天童城を攻撃したが決着を見ず、和睦が成立し、その際、天童頼貞の女が義光の側室となった。これは、一般的に和睦の形態としてみられるものである。天童頼貞はこののち死去し、その跡は若年の頼久が継いだ。義光の側室天童氏は、天正10年義光の三男義親を生むが、その直後の同10年10月12日天童氏は死去した。ここに、婚姻関係を媒介とした最上・天童両者の関係は断絶した。そして、義光は次女の松尾姫(天正六年生まれと伝えられる)を延沢城主延沢満延の嫡子又五郎光満に嫁がせ、天童氏の同盟のなかでも最も有力な国人の切り崩しに成功した。このようななかで、天正12年九月義光は天童城を攻撃し、10月10日これを攻略したのである。近年、天童落城とその後の天童頼久の動向を示す史料が発見されており、現在では天童落城は天正12年で確定している。
そして、誉田氏による義光の人物像については、末娘の駒姫の悲劇と長男義康の死、そして最終的な最上氏の改易という事実とともに、積極的評価はされていないと思われる。これが地元の人々に与えた影響は大きい。そして、これが全国的な広がりをみせ、一例を示せば、「秀吉の勢力が天下を支配したところ、その威を借りた義光のずるがしこいやりかたは、まさに虎の威を借る『最上のきつね』とでもいうべきであろう」などという記述もみられることになった(佐々木銀弥著、日本の歴史文庫?『戦国の武将』講談社、1975年5月)。このような評価の見直しが必要なことは言うまでもない。
■執筆:粟野俊之(駒澤大学講師)「歴史館だより?8」より
最上氏に関する基本的な文献とされてきたものに、まず誉田慶恩著、日本の武将60『奥羽の驍将−最上義光−』(人物往来社、1967年6月)がある。内容についてはのちに述べるが、この書名は「最上義光」という名前よりも「奥羽の驍将」という題名のほうが大きく目立っている。この本の題名は編集サイドの意向によるものと思われるが、最上義光という戦国武将の名前がまだ一般的ではなかったことを示している。
次にあげられるのが、『山形市史』通史編である。『山形市史』中巻、近世編(山形市、1971年3月)の第一章は「最上氏治世下の山形」であり、「第一節 最上義光の支配」「第二節 改易と転封」「第三節 武将の面目とその文化」から成っている。このなかでは、第一節が中心となることは明らかであり、その執筆者は一部を除き誉田慶恩氏である。
『山形市史』上巻、原始・古代・中世編(山形市、1973年3月)では、「第四章 中世の村山盆地」の「第二節 室町時代と村山地方」のうち、「2 大名領国の展開と斯波氏」「3 館・在家の構造と郷村制」「4 戦国争乱の進展と最上氏」が該当し、これも大部分が誉田慶恩氏の執筆である。『山形市史』上巻の記述は天正18年(1590)までであるが、中巻は天文15年(1546)の最上義光の誕生から始まっているため、両者には最上義光について記述が重なる部分がある。これは、中巻が上巻よりも先に出て、義光について天正18年の小田原参陣や奥羽仕置からではなく、誕生から記述されたことに原因がある。
ともあれ、最上氏および最上義光に関する多くの文献のなかで、最も一般的で多くの人々の目に触れる文献が、『奥羽の驍将−最上義光−』(以下『義光』と略す)と『山形市史』(以下『市史』と略す)であったことは疑いなく、いずれも誉田慶恩氏の執筆になるものであった。したがって、『義光』と『市史』は後世に大きな影響を与えたが、この記述が妥当なものであるかについては問題がある。そこで、以下これを戦国時代を中心として検証していきたい。
永正11年(1514)2月15日、最上義定は長谷堂において伊達稙宗の軍勢と戦い、大敗した。伊達軍は楯岡・長瀞・山辺式部・吉河兵部以下千余人を斬り、長谷堂城を抜き、小梁川親朝を駐留させた。この結果、翌永正12年最上氏と伊達氏は和睦し、最上義定に伊達稙宗の妹が嫁ぐことになる(伊達正統世次考)。誉田氏は「この戦で惣領制的性格の濃い最上武士団の脆弱性が暴露され、最上勢の足なみはまったくそろわなかった」と述べている(『義光』、『市史』上も同内容)。この稙宗による最上攻めは、伊達氏の家督継承後の最初の対外戦争とみられる。いわば、伊達氏において用意周到になされた作戦とみられ、最上側が大敗したことは事実であろうが、最上氏の体質が古く、伊達氏が新しいという見方は一面的と言わざるをえない。
義光が16歳のとき、義守・義光父子が高湯(蔵王温泉)に湯治に行き、鹿狩りをして眠りについたところ、近辺の盗賊数十人が来襲した。義光は近習の者たちの先頭に立って防戦し、二人に深手を負わせ、一人と組み合って刺し殺した。この武勇に義守は喜び、笹刀と称した家宝の名刀を授けたという(最上義光物語)。この真偽のほどは明らかではないが、よく知られたエピソードである。義光が16歳といえば永禄4年(1561)にあたり、『最上義光物語』の作者は、義光が少年の頃から武勇に優れていたことを示したかったものであろう。しかし、誉田氏は「大名親子ともあろうものが野盗の襲撃をうけたとは、最上氏の権勢も疑わしいものである」「当時の最上氏は、まだ豪族の域を脱しない小大名で、近隣の大大名伊達氏の権勢の下に屏息し、辛うじて命脈を保っていた程度であったのであろう」と述べている。(『義光』・『市史』上)。義守の伊達氏天文の乱における戦歴やその後の義光の活躍をみれば、このような評価が当たらないことは明白である。戦国大名に組織されていない野盗の存在は、戦国時代には一般的であり、これをもって小大名と評価することは出来ない。ただし、最上氏側の警備体制に問題があったことは確かである。
最上義光は戦国大名最上氏を飛躍的に発展させた人物であるが、義光による領国の発展過程、つまり歴史的な経緯については問題がある。誉田氏は天童落城について「根本資料がないため、不明な点が多く、落城の年月にも二説ある。『奥羽永慶軍記』『最上義光事歴』は天正5年10月とし、『愛宕社記』『諸城興廃考』『伊達世臣家譜略記』は天正12年10月としている。松尾姫が天正6年生まれと伝えられるところから、近時は天正12年説が有力となった。しかし、天正12年は、義光が白鳥氏や大江氏を滅ぼした年である。同年のうちに谷地・寒河江・天童の三面作戦を行って、一挙に成功したとは考えにくい。また天正九年には義光が最上郡に進出し、強力な庄内の武藤氏と激しく戦っている。義光の領土拡張の経過から考えると、遅くとも天正8年までに天童城は攻略され、村山郡の川東(最上川以東)地域は、完全に義光の領国化したとみるべき」としている(『市史』中、『義光』もほぼ同じ)。さらに、「義光はいつ頃一族を掃討し、村山地方に領国制を確立したかは明確でないが、遅くとも天正8年までには、川東地域をほぼ平定したと推定される」とされ(『市史』上)、推定とはいえ、天童落城を天正8年(1580)と確定している。
しかし、その根拠は、義光が天正九年には最上郡に進出していること、天正12年もうちに谷地の白鳥氏、寒河江の大江氏とともに天童氏を滅亡させたとは考えにくいというものであり、状況証拠にもとづくものであって、確たる証拠があるわけではない。
つまり、旧説のほうが正しいといえよう。天童落城の過程は次のようになる。天正5年義光は天童城を攻撃したが決着を見ず、和睦が成立し、その際、天童頼貞の女が義光の側室となった。これは、一般的に和睦の形態としてみられるものである。天童頼貞はこののち死去し、その跡は若年の頼久が継いだ。義光の側室天童氏は、天正10年義光の三男義親を生むが、その直後の同10年10月12日天童氏は死去した。ここに、婚姻関係を媒介とした最上・天童両者の関係は断絶した。そして、義光は次女の松尾姫(天正六年生まれと伝えられる)を延沢城主延沢満延の嫡子又五郎光満に嫁がせ、天童氏の同盟のなかでも最も有力な国人の切り崩しに成功した。このようななかで、天正12年九月義光は天童城を攻撃し、10月10日これを攻略したのである。近年、天童落城とその後の天童頼久の動向を示す史料が発見されており、現在では天童落城は天正12年で確定している。
そして、誉田氏による義光の人物像については、末娘の駒姫の悲劇と長男義康の死、そして最終的な最上氏の改易という事実とともに、積極的評価はされていないと思われる。これが地元の人々に与えた影響は大きい。そして、これが全国的な広がりをみせ、一例を示せば、「秀吉の勢力が天下を支配したところ、その威を借りた義光のずるがしこいやりかたは、まさに虎の威を借る『最上のきつね』とでもいうべきであろう」などという記述もみられることになった(佐々木銀弥著、日本の歴史文庫?『戦国の武将』講談社、1975年5月)。このような評価の見直しが必要なことは言うまでもない。
■執筆:粟野俊之(駒澤大学講師)「歴史館だより?8」より