館長の写真日誌 令和8年5月13日付

最上家関係文書 展示状況

「親」の一字だけが書かれた「一字状」
当館では現在、徳島里見家旧蔵「最上家関係文書」を特別公開しています。徳島市に在住する旧東根城主里見家の御子孫から昨年9月に山形市に寄贈された資料のうち、最上家関係文書6通が令和8年3月19日付で山形市指定有形文化財に指定されたことをうけて展示しているものです(8月30日まで)。その見所としてまずは、最上義光の花押でしょうか。実はこれまでの当館の所蔵品に、最上義光の花押のある文書がなかったのですが、今回、義光名の文書の全てに花押があり見比べることもできます。通常、花押がある文書というのは相手宛なので、手元には残りません。
さて、里見家と最上家との関係ですが、最上家初代・斯波兼頼の孫・天童頼直の子が東根里見家初代・頼高です。また、東根里見家9代目・親宜(ちかよし)は、最上義光の四女・禧久姫(きくひめ)を娶っています。元和8年(1622)に最上家が国替えとなった際、親宜は徳島藩預かりになり、後に蜂須賀家の家臣となります。今回展示している文書の一つに、「親」の一字だけが書かれた文書の「一字状」があります。義光の子である最上家12代・家親が、自身の「親」の字を東根源右衛門尉に与えるとする文書です。これにより源右衛門尉は名を親宜と改めます。東根里見家9代目・親宜です。
このように主君が配下の武将や家臣に対して、自身の名前の一字を与えて名乗らせることを「一字拝領」または「偏諱(へんき)授与」と言います。ちなみに最上家親も、かつて徳川家康に仕えていたことから、元服の際、家康から「家」の一字を拝領し、義親から家親へと名を改めています。さらに言えば、その父・最上義光の「義」は室町幕府の第13代将軍・足利義輝から一字拝領したものです。
この足利家と最上家の関係ですが、最上家初代は斯波兼頼で、後に地名である最上を名乗りますが、斯波家と足利家と言うと、歴史に詳しい方ならピンとくるかと。斯波氏は、室町幕府において細川氏や畠山氏と並ぶ「三管領」の一つを務め、越前や尾張など複数の守護を兼任した家系です。斯波家の家格は将軍家に次ぐ高さで、足利の姓を公称し、足利尾張家とも号しました。
家系を遡ると、足利尊氏の曽祖父にあたる足利家4代・泰氏の子には頼氏と家氏がいて、頼氏が足利家を継ぎ、家氏が陸奥国斯波郡(現・岩手県盛岡市の一部および紫波郡)を所領、その子・宗家が斯波家を名乗ります。家氏の母は当初は泰氏の正室でしたが、諸事情により側室に退き、長男である家氏は嫡子から庶子になりました。代わって北条時氏の娘が泰氏の正室となり頼氏をもうけ、足利家を継承しました。この嫡流と庶流の逆転が後々面倒なこととなるようです。
そして斯波家初代・宗家の子が宗氏、その子が高経と家兼です。高経は、南北朝時代に足利尊氏に従い北朝軍の有力武将となり、北陸方面の司令官として活躍、延元3年(1338)に南朝軍の司令官である新田義貞を討ちました。ちなみに高経の「高」は北条高時からの偏諱です。
一方、高経の異母弟である家兼は、兄とともに尊氏を支えました。延元元年(1336年)若狭守護に任じられ北陸へ赴くと、兄と協力して新田義貞を滅ぼしました。家兼は(北朝)文和3年/(南朝)正平9年(1354年)に奥州管領に任命され、中新田城を拠点に奥羽における斯波氏の優位を固め、管領職の世襲を確立しました。家兼の子には直持と兼頼がおり、直持は延文元年(1356)に父が逝去すると奥州管領となり、大崎氏(現・宮城県大崎市)の祖となりました。弟の兼頼は最上家初代当主となります。
兼頼は延文元年(1356)、出羽国按察使として出羽国最上郡山形(現・山形市)に入部し、翌年には山形城を築城しました。また、多くの寺社を建立し、嫡男の直家に家督を譲って以降は、城内に草庵を結び、念仏三昧の日々を送りました。康暦元年(1379)に兼頼が死去すると草庵に葬られ、直家が寺院として整備し、光明寺と名付けました。その寺号は兼頼の戒名「光明寺殿成覚就公大居士」に因むものです。
最上義光が山形城を大改修した際、光明寺は山形城の二の丸大手門前に広大な境内を得て移されたのですが、最上家の国替え後、山形藩に入封した鳥居忠政が山形城の正面に最上家の菩提寺がある事を嫌い、現在地(山形市七日町)に移しました。当館と周辺の公園が、かつての光明寺の敷地であり、現在はその一角に「光明の庭」と称するエリアが設けられ、「光明寺跡」と彫られた石碑と石灯籠が置かれています。
(裏館長日誌に続く)

