館長の写真日記 令和6年1月4日付け
新年、明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。とは言え、年明け早々、地震や事故など大変な状況になっております。被害にあわれた方には、心よりお見舞い申し上げます。
さてはなんとも「めでたくもあり めでたくもなし」といった感じですが、これは「門松や 冥土の旅の一里塚」という句に続く句で、一休宗純の作です。ところで一説によると、人は120歳まで生きられるそうで、ならば自分はまだ折り返し地点ぐらいか、とのんびり構えていますが、健康寿命となると男性72.7年、女性75.4年とのことで、干支の一回り程度しかありません。
昨年亡くなった坂本龍一さんに、「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」という著書がありますが、あと何回、まともな食事ができるだろうと、その都度の食事を大切にしている人がいます。一方、30歳を過ぎたら歳をとらない(数えない)という女性もいるらしいのですが。
さて、山形市では毎年1月10日に「初市」が行われます。主催者の山形商工会議所のホームページによると、「山形市初市は、最上義光公(1546〜1614)治世の江戸時代初期から続く伝統行事です。当時、山形には三日町、五日町、七日町、十日町など、定期の市が立つ市日町がありましたが、それら市の中心として十日町に市神(いちがみ)が祭られ、毎年1月10日に、市神祭りとして十日町から七日町にかけて多くの露店が立ち並び、縁起物をはじめいろいろな物を並べて売り立てるようになりました」とあります。
それでは、ちょっと詳しくみてみましょう。
最上義光が山形城を整備した頃には、二日町から八日町そして十日町がありました。それぞれの町名の日に市が立つのですが、九日町がないのは、毎月9のつく日も十日町で市が立ったためです。
十日町はもともと、三の丸の中にあった正楽寺と勝因寺を結んだ地にあり、その門前市が十日に開かれていたことによるそうですが、最上義光が山形城建設にあたって、現在の地に十日町を移しました。その際に、旧十日町を割付ていた基準石を移し、今(新)十日町を割付る元標にし、これを市神石としたそうです。市神石は高さ70センチ、幅35センチの円筒型の安山岩の自然石ですが、当時の観光ガイド本である「山形風流松木枕」には、「又此石は市神といわひ、毎年正月十日市の立砌(みぎり)為商人者参詣せすといふ事なし」とあります。
市神石は十日町の道路上に半埋されていましたが、明治5年に交通の妨害になるとして県庁に移動したところ、それを運搬した人が病死しました。その後、市役所の西側にあった湯殿山神社境内に移されました。湯殿山神社は市役所改築の時に現在の地に移転し、その境内に市神神社のご神体として祀られています。ご神体は、初市の1月10日と熊手市を開催する11月23日のゑびす講大祭のみに御開帳されます。初市当日は、縁起物である「かぶ」のお頒ちや敬神婦人会による「かぶ汁」の振る舞いがあります。また、ここの絵馬は蕪をかたどったものとなっており、とてもいいデザインです。
一方、市神石の移転後も十日市跡地への参拝者が後を絶たず、もとの場所には新たに市神様の碑が祀られ、戦後に歌懸稲荷神社境内に移されています。
さて初市では、初飴や団子木などの「縁起物」と、まな板や杵臼などの「木工品」の他、飲食物、野菜、工芸品等の露店が並びます。ここで縁起物の説明を少々。
まず「だんご木」ですが、全国に様々な形や風習があるのですが、お正月、特に1月15日の小正月に、ヤナギ(山形はミズキ)などの枝に紅白の小さく切った餅や団子を飾り1年の豊作を願う正月飾りです。餅花とも言い稲の花を表し、小正月が終わった後は、これを焼いて食べると1年間無病息災でいられるとのこと。1月15日のどんと焼きで焼いたり、1月20日の二十日正月(はつかしょうがつ)に食べたりするようです。
ただし、山形のだんごは丸い最中の皮に彩色したもので食べたりしません。だんごの色は、緑が春、赤が夏、黄が秋、白が冬を表しており四季を通してご利益があるよう祈願し、恵比寿・大黒・千両箱・宝船・小判・鯛などのふなせんべいで飾りつけます。その片付けは、小正月や二十日正月にするべきでしょうが、1月末や旧正月まで飾ったりします。
また、養蚕が盛んな地域は、団子を繭の形に整えた繭玉で同じように飾るそうですが、こちらは養蚕の豊作を願うものです。木に刺さずにそのまま供えて、小正月にいただくところもあるようです。
つぎに「蕪」ですが、これは同業者組合への加入権が株と呼ばれおり、株という言葉にかけて、商売繁盛や身代が大きくなるよう願ったことによります。そして、「白ヒゲ」と呼ばれるアサツキの類の野菜ですが、これは白髭の老人のように豊かで長生きができるようにとの願いによるものです。
そして「初飴」ですが、白紙の上に点々と水飴を盛ってつくる盛飴がもとで、山形特産の紅花の紅餅を筵(むしろ)に並べる様子になぞらえて、紅花の豊作を願ったものです。紅花の筵干しの様子を表すように、半紙に紅白の飴を15〜16個ほど盛り付けては市神様にお供えしました。現在は切飴となり福を呼ぶ縁起物として売られています。
飴の種類は紅白以外にもいろいろあり、餡入り、ゴマ入り、抹茶、ココアなどありますが、露店によって取り扱う品が異なります。ところでこの初飴、なかなかに慎重を要する食べ物でもあります。歯にくっつき、歯の詰め物がとれたりするのです。歯の治療技術も飴の品質も改善されているようで、こういうことは少なくなりましたが、今でも当館の学芸員は警戒しています。
また、数年前からこの初市の夜に、霞城公園から打ち上げ花火が上げられるようになりましたが、この話をするときりがなくなるので、この辺で失礼いたします。本年も最上義光歴史館をよろしくお願いいたします。
湯殿山神社境内にある市神神社
歌懸稲荷神社境内にある市神様の碑
市神石の跡地に建てられた十日市碑
畑地化が進む明和の時代、「羽州最上御城内乃図」
市神神社の「蕪」絵馬、大きくなりますように
( → 館長裏日記に続く)
さてはなんとも「めでたくもあり めでたくもなし」といった感じですが、これは「門松や 冥土の旅の一里塚」という句に続く句で、一休宗純の作です。ところで一説によると、人は120歳まで生きられるそうで、ならば自分はまだ折り返し地点ぐらいか、とのんびり構えていますが、健康寿命となると男性72.7年、女性75.4年とのことで、干支の一回り程度しかありません。
昨年亡くなった坂本龍一さんに、「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」という著書がありますが、あと何回、まともな食事ができるだろうと、その都度の食事を大切にしている人がいます。一方、30歳を過ぎたら歳をとらない(数えない)という女性もいるらしいのですが。
さて、山形市では毎年1月10日に「初市」が行われます。主催者の山形商工会議所のホームページによると、「山形市初市は、最上義光公(1546〜1614)治世の江戸時代初期から続く伝統行事です。当時、山形には三日町、五日町、七日町、十日町など、定期の市が立つ市日町がありましたが、それら市の中心として十日町に市神(いちがみ)が祭られ、毎年1月10日に、市神祭りとして十日町から七日町にかけて多くの露店が立ち並び、縁起物をはじめいろいろな物を並べて売り立てるようになりました」とあります。
それでは、ちょっと詳しくみてみましょう。
最上義光が山形城を整備した頃には、二日町から八日町そして十日町がありました。それぞれの町名の日に市が立つのですが、九日町がないのは、毎月9のつく日も十日町で市が立ったためです。
十日町はもともと、三の丸の中にあった正楽寺と勝因寺を結んだ地にあり、その門前市が十日に開かれていたことによるそうですが、最上義光が山形城建設にあたって、現在の地に十日町を移しました。その際に、旧十日町を割付ていた基準石を移し、今(新)十日町を割付る元標にし、これを市神石としたそうです。市神石は高さ70センチ、幅35センチの円筒型の安山岩の自然石ですが、当時の観光ガイド本である「山形風流松木枕」には、「又此石は市神といわひ、毎年正月十日市の立砌(みぎり)為商人者参詣せすといふ事なし」とあります。
市神石は十日町の道路上に半埋されていましたが、明治5年に交通の妨害になるとして県庁に移動したところ、それを運搬した人が病死しました。その後、市役所の西側にあった湯殿山神社境内に移されました。湯殿山神社は市役所改築の時に現在の地に移転し、その境内に市神神社のご神体として祀られています。ご神体は、初市の1月10日と熊手市を開催する11月23日のゑびす講大祭のみに御開帳されます。初市当日は、縁起物である「かぶ」のお頒ちや敬神婦人会による「かぶ汁」の振る舞いがあります。また、ここの絵馬は蕪をかたどったものとなっており、とてもいいデザインです。
一方、市神石の移転後も十日市跡地への参拝者が後を絶たず、もとの場所には新たに市神様の碑が祀られ、戦後に歌懸稲荷神社境内に移されています。
さて初市では、初飴や団子木などの「縁起物」と、まな板や杵臼などの「木工品」の他、飲食物、野菜、工芸品等の露店が並びます。ここで縁起物の説明を少々。
まず「だんご木」ですが、全国に様々な形や風習があるのですが、お正月、特に1月15日の小正月に、ヤナギ(山形はミズキ)などの枝に紅白の小さく切った餅や団子を飾り1年の豊作を願う正月飾りです。餅花とも言い稲の花を表し、小正月が終わった後は、これを焼いて食べると1年間無病息災でいられるとのこと。1月15日のどんと焼きで焼いたり、1月20日の二十日正月(はつかしょうがつ)に食べたりするようです。
ただし、山形のだんごは丸い最中の皮に彩色したもので食べたりしません。だんごの色は、緑が春、赤が夏、黄が秋、白が冬を表しており四季を通してご利益があるよう祈願し、恵比寿・大黒・千両箱・宝船・小判・鯛などのふなせんべいで飾りつけます。その片付けは、小正月や二十日正月にするべきでしょうが、1月末や旧正月まで飾ったりします。
また、養蚕が盛んな地域は、団子を繭の形に整えた繭玉で同じように飾るそうですが、こちらは養蚕の豊作を願うものです。木に刺さずにそのまま供えて、小正月にいただくところもあるようです。
つぎに「蕪」ですが、これは同業者組合への加入権が株と呼ばれおり、株という言葉にかけて、商売繁盛や身代が大きくなるよう願ったことによります。そして、「白ヒゲ」と呼ばれるアサツキの類の野菜ですが、これは白髭の老人のように豊かで長生きができるようにとの願いによるものです。
そして「初飴」ですが、白紙の上に点々と水飴を盛ってつくる盛飴がもとで、山形特産の紅花の紅餅を筵(むしろ)に並べる様子になぞらえて、紅花の豊作を願ったものです。紅花の筵干しの様子を表すように、半紙に紅白の飴を15〜16個ほど盛り付けては市神様にお供えしました。現在は切飴となり福を呼ぶ縁起物として売られています。
飴の種類は紅白以外にもいろいろあり、餡入り、ゴマ入り、抹茶、ココアなどありますが、露店によって取り扱う品が異なります。ところでこの初飴、なかなかに慎重を要する食べ物でもあります。歯にくっつき、歯の詰め物がとれたりするのです。歯の治療技術も飴の品質も改善されているようで、こういうことは少なくなりましたが、今でも当館の学芸員は警戒しています。
また、数年前からこの初市の夜に、霞城公園から打ち上げ花火が上げられるようになりましたが、この話をするときりがなくなるので、この辺で失礼いたします。本年も最上義光歴史館をよろしくお願いいたします。
湯殿山神社境内にある市神神社
歌懸稲荷神社境内にある市神様の碑
市神石の跡地に建てられた十日市碑
畑地化が進む明和の時代、「羽州最上御城内乃図」
市神神社の「蕪」絵馬、大きくなりますように
( → 館長裏日記に続く)