館長の写真日記 令和5年12月21日付け:最上義光歴史館

館長の写真日記 令和5年12月21日付け

 いよいよクリスマスの季節とはなりましたが、クリスマスセールも昔のようには盛り上がらず、ましてクリスマスパーティーなどは、家庭以外では絶滅しつつあります。そんな暗い世間を照らすべくイルミネーションの類は色々がんばってはいますが、ネットではマライヤさんの印税はどのくらいなどという話題ばかりです(山下さんのも気になりますが)。もっとも今年は、違うパーティの話は賑やかです。
 さて、クリスマスはキリストの降誕祭ですが、12月25日が誕生日ではありません。聖書には誕生日を特定できる記述がないのです。12月25日とした理由は実はこうです。かつてローマでは、太陽神を祭る日を12月25日と定めていました。これは冬至を経て太陽の勢いが戻ることを祝ったものです。クリスマスはこの日に便乗したらいいと336年に教会が定めたものだそうです。
 キリストの生まれた年も紀元前4年というのが定説になっています。すると紀元前をBC(Before Christ)と表すと理屈に合わなくなるため、学術論文などではBCE(Before Common Era)と表記するようになっているそうです。ちなみに紀元後はADではなくCE(Common Era)となるそうです。
 また、クリスマスイブのイブは前夜祭のことではなく、単に「イブニング」を略しただけとのこと。カトリックの教会歴では、日没から次の日没までを1日と区切るため、クリスマスは12月24日の日没からとなります。それがクリスマスイブです。じゃ、翌朝は「クリスマスモー」と言うのかというと定かではありませんが、忌野さんと篠原涼子さんが「クリスマス・モーニング」という曲をデュエットしています(作詞作曲も本人たち!!)。
 ということで、クリスマスの蘊蓄をひととおり並べたところで、今回はキリシタン(切支丹)のお話でも。
 日本にキリスト教がもたらされたのは、1549年8月にフランシスコ・ザビエルが来日したときです。ザビエルはスペイン出身のイエズス会士です。イエズス会はスペインのカトリックの男子修道会であり、プロテスタントに対抗して1534年に創設されました。同じ年に織田信長が生まれています。
 最上義光は1546年に生まれ、1571年に山形城城主となります。その頃は既に南蛮貿易が盛んでしたが、1587年にバテレン追放令、1596年に禁教令が出され、1597年に長崎で二十六聖人が殉教します。さらに1612年にキリスト教禁止令が出され、1614年にキリシタン大名らが国外追放されます。同じ年に最上義光は亡くなりなります。
 1616年には家康が亡くなり、同年、初の鎖国令ともなる「二港制限令」が発令。その後1619年に京都の大殉教(52名)、1622年に元和の大殉教(55名)、1637、8年に島原の乱が起きます。つまり、最上義光が生きた時代は、南蛮貿易とキリスト教がもたらされ、それが禁教と鎖国へ向かった時代でありました。
 少し詳しく見ていきましょう。1543年に鉄砲がもたらされ、これ以降、ポルトガル人が頻繁に渡航し南蛮貿易が始まります。主な輸入品は絹や陶器などでしたが、大名達は鉄砲や弾薬などを買い求めました。鉄砲は国産化もされるのですが、火薬となる硝石や銃弾となる鉛は輸入に頼っていました。織田信長は国内に出回る硝石の流通を押さえており、これが天下取りの大きな要因だったとのことです。南蛮船は日本に宣教師を連れてきており貿易と布教がセットでしたが、一向一揆で苦しんだ信長は、仏教勢力に対抗するためにキリスト教を公認していました。
 豊臣秀吉も南蛮貿易を享受していたのですが、1587年に島津攻めに行った時、キリシタン勢力により現地の寺社が壊され、南蛮貿易で財力や武力を蓄えるキリシタン大名を目の当たりにするとともに、一向一揆を思わせるキリシタンの結束力や南蛮貿易における奴隷売買を警戒するようになり、同年、キリシタン宣教師の国外追放を定めるバテレン追放令をだしました。ただし、南蛮貿易を続けたかった秀吉は宣教師の布教を黙認し、宣教師たちも布教のための資金を南蛮貿易から得ていました。
 1612年の禁教令は、幕府直轄地の教会破壊と布教禁止を命じるものでしたが、諸大名は「国々御法度」として受け止め、同じ施策を行ったそうです。しかし、伝道者の一部は布教活動を続けていたため、1614年に伴天連(バテレン)追放之文を発布し禁教令を全国に広めました。この時、奥州外ヶ浜(津軽)には70余名の武士が流され、奥羽地方にキリシタンが流れ込みます。山形の伝導は、津軽を訪問する宣教師によりなされました。宣教師は、長崎から日本海の各港を経由し酒田に入ったとの記録があります。
 やがて弾圧が厳しくなり、全国的には、1619年に京都にて52人が殉教(京都の大殉教)、1622年に長崎西坂にて55人が殉教(元和の大殉教)、1623年に江戸にて50人が火あぶりで殉教(江戸の殉教)しました。伊達政宗はこの江戸での火あぶりを目の当たりにし禁教強化へとむかうのですが、1620年に慶長遣欧使節の支倉常長が仙台に帰着し、キリシタン家臣も何人かおり、その扱いに苦慮せざるを得ませんでした(詳しくは吉川弘文館「日本歴史」2023年12月号佐々木徹氏論説を)
 また、米沢の上杉景勝は宗教に寛容であったことから近隣の信者が流れ込み、領地には最大1万人とも言われるキリシタンが存在したそうです。景勝は禁教令を布達したものの取締りは寛大で、幕府に対し「当領内には切支丹一人も御座なく候」と答えたそうです。しかし上杉景勝を継いだ定勝の時代となると禁教圧力に抗えず、1629年に甘粕右衛門一族ら53人が殉教、その後も数多くのキリシタンが殉死しました。その処刑が行われた米沢市にある「北山原キリシタン殉教の遺跡」は、日本でも有数のキリシタン殉教の地となっています。
 山形城下でも城主鳥井忠恒のもと1630年に9人が火刑、26人が斬首され、それ以降も殉教者が出るのですが、棄教を求めても従わない者に対する処刑であり、殉教者は神のもとに召されることを喜びとしていたため、次第に投獄し一生をそこで終えさす対応になったそうです。
 さて、当館では現在、御城印販売記念「山形城下絵図展」を、令和6年3月31日(日) まで開催しています。当館所蔵の山形城下絵図7点を展示公開し、山形城の歴史と変遷等を紹介しています。その中の1688年に描かれた「羽州邑山郡山形城内屋敷之図」には、キリシタンの牢獄と思われる場所(籠屋)の表示があるのですが、そこには通常「切支丹」と表記されるところが「切死丹」となっていています、うわっ。


 山形市街中心商店街にあるツリーです。最近、自宅の近くで、これと全く次元が違う「二郎系イルミネーション」の一般住宅を発見しました。もう「マシマシ」です。


 同じ商店街で見つけた看板です。遊び心というか、いじらしいというか、脱帽です。隣接する某市の「光のページェント」の予算規模は1億円以上とのことですが、ここまではしないかも。でも、そのイベントでは仮設の屋外スケートリンクも設けるそうです。こうしたスケートリンクはNYのロックフェラーセンターが有名ですが、国内でも見かけるようになりました。市内にもあったらいいなと思いますが、おっと、スケートリンクの話はアンタッチャブルということで。


この「羽州邑山郡山形城内屋敷之図」に「切死丹篭屋」が表記されています。


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