「駒姫の死について」 胡 偉権
駒姫の死について
最上氏といえば、義光のほか、駒姫が一番有名ではないだろうか。彼女は悲劇な人生を送り、若く横死したことは、誰でも哀しき想いをさせる。かつて、片桐繁雄氏は当館のホームページで、いわゆる「秀次事件」における彼女の最期を、すでに詳しく追究している(注一)。
駒姫は秀次のために殺されたことは紛れも無い事実だが、ここでは、視点を変えて、駒姫と秀次を語る歴史像の形成について再考してみたい。ところで、一次史料による限り、彼女の本当の名前は「おいま」の方が有力だが、以下は、耳馴染みの「駒姫」として文を進めたい(注二)。
【1】秀次について
今までの通説では、駒姫の登場は秀次に強く関わった。すなわち、天正十八年の大崎葛西一揆に際して、秀次は駒姫の美しさを知り、山形に立ち寄り、義光に対して駒姫を強要した。義光は固辞したが、秀次の執拗な要請に負けて、可愛がる娘を渋々と差し出したという。
このエピソードは、最近の歴史番組でも紹介され、あまりにも有名である。あたかも「漁色家」と貶される秀次の所行は、後に彼自身の滅亡、そして駒姫の悲惨な死につながるというわけだが、問題はそのエピソード自体はどれほど事実だろうか。
近年の研究では、豊臣政権及び秀次の研究が進められ、小和田哲男氏(注三)をはじめ、近年の藤田恒春氏(注四)と矢部健太郎氏(注五)の近著などから、秀次事件の顛末、そして新しい歴史像が判明されつつある。
要するに、秀次事件は豊臣政権の政争と権力闘争に深く関わり、秀次と叔父の秀吉の間に秀頼のために誤解と矛盾が深まった結果であり、秀次の奇行は後世の軍記に潤色された部分が多く、必ずしも真実ではないなどの指摘が出ている。ここではそれ以上の論及を控えるが、詳しくは各氏の関連書籍をご参照されたい。
【2】通説の形成と仙台藩
さて、本題に戻ると、秀次は駒姫を強要したエピソードはどうだろうか。興味深いことに、最上義光の生涯を語る軍記『最上記』(または『最上義光物語』、注六)は、駒姫のことを全く触れていない。また、駒姫に関する一次史料も皆無に近く、その管見の限り、秀次の強要と駒姫の死を語る初見史料は、伊達氏の重臣である伊達成実の『成実記』(注七)と考えられる。後述するように、仙台藩の藩史で、政宗の一代記である『貞山公治家記録』(注八)においても、駒姫の死を述べる際、基本的には『成実記』の記述を踏襲している。
その後に成立された最上氏を述べる諸軍記、たとえば、後に触れる『会津四家合考』(注九)や『奥羽永慶軍記』(注十)なども『成実記』の記述とは大筋がほぼ類似している。したがって、駒姫をめぐる通説の根元は『成実記』と見て差し支えなかろう。
かつて筆者は天正十六年の鮎貝氏反乱について、『成実記』の性格を触れた(注十一)。再言になるが、その史料は成実が晩年に書いた回憶録であり、片倉景綱と並ぶ政宗の右腕と称えられる成実であれば、その証言の信ぴょう性が高く、簡単に無視することはできない。
だからといって、駒姫の件を含み、その中に書き綴られる様々な事件とエピソードには裏付けられる史料が必ずしも揃えているとも限らない。駒姫の件について、そのまま鵜呑みしては危険である。
【3】秀次の強要は本当か
駒姫の件に関する通説の形成を検証してみよう。まず、『成実記』によれば、秀次は家康とともに九戸一揆を鎮圧するため、奥羽に下向した。家康は岩出山に、秀次は山形に立ち寄った。その後、秀次の切腹を記す部分では、「最上義光の娘(駒姫)をはじめ、三十六人の御目懸衆(女房)を殺害した」(現代語訳は筆者による、以下同)とし、駒姫が巻き込まれたきっかけは「義光の娘は奥州一揆の時、秀次が最上に御在陣の時、(義光から)献上された」ことにあったという。
前出の『貞山公治家記録』巻十九、文禄四年(1595)七月八日条と八月上旬にわたって同じ趣旨の文が記されているが、その間に「この一条は豊臣(秀吉)譜に記されるところと違う。しかし、どちらが事実かはわからないため、当家旧記のまま、ここに記す」という注記が綴った。ここの「旧記」とは『成実記』であり、『治家記録』の編さん者は秀次事件を記述する際に、『成実記』を主要な根拠としていることが明らかである。
ちなみに、『成実記』を読む限り、駒姫の献上は義光が自らしたことであり、秀次が強要したわけではないのである。それでは、「秀次が強要した」という書き入れはいつ、どこに加えられたのか。『最上記』とほぼ同時期に編さんされた『会津四家合考』(1662年成立)巻七・「義光由来の事」に秀次と駒姫の死を「罪のない娘を無理に太閤(秀吉)に殺された」のみで、秀次が強要したことは触れていない。
それに対して、18世紀初頭に成立した『奥羽永慶軍記』巻廿五を読むと、事件の経緯はさらに詳しく、通説の秀次が駒姫の美しさに魅了され、執拗に強要するという内容がようやく見られた。その後に成立した『羽源記』(注十二)、『羽陽軍記』(注十三)などは『奥羽永慶軍記』の説を踏襲し、定説となりつつあった。
『奥羽永慶軍記』の著者は何を根拠として秀次が強要したことを書き入れたかは不明だが、事件の経緯は『成実記』のそれと大差がないから、根本的問題は、やはり『成実記』の記事の信ぴょう性である。以下は簡略に追ってみよう。
『成実記』が述べた、天正十九年夏の秀次の奥州下向は事実ではあるが、秀次は山形に立ち寄ったかは別の問題である。藤井氏によれば、秀次は七月に家康とともに奥州に入ったが、九戸一揆の鎮圧を政宗、蒲生氏郷、そして浅野長政に任せ、自身は八月中旬に三迫まで進軍し、そこに本陣を敷いた。その後の一か月はその動向を語る史料がなく、翌々月の十月中旬に白川、宇都宮に立ち寄って京都へ帰った(注十四)。
そうすると、秀次が山形へ「立ち寄った」ことが可能なのは九月頃でしか考えられず、また、藤井氏によれば、秀次と家康は九戸一揆の平定後、平泉まで足を伸ばしているという。そうすると、総大将格の秀次はずっと家康と同行していたことは自然であり、わざと山形に立ち寄った可能性は全くないわけではないが、極めて低いと思われる。
さらに、九戸一揆を討伐する当時に、最上を経て進軍したのは上杉景勝・大谷吉継なのであり、一方、義光は秀次と家康が二本松についたのを知り、二本松まで両人に謁見した後、一旦山形に戻り、九戸一揆の鎮圧に赴くと自ら語ったから、秀次は山形に立ち寄る予定がなさそうで、義光もまた九戸一揆のために出陣しようとするから、秀次を招く余裕がなかろう(注十五)。逆に言えば、秀次の強要にせよ、義光が自ら娘を献上したことにせよ、駒姫と秀次の対面を可能にしたのは、上記の二本松の面会でしかないが、以上の考察による限り、同年末、義光が上洛した後のことではないかと考えられる。
上記の考察によって『成実記』や『奥羽永慶軍記』による秀次と駒姫のエピソードを全面に否定することはできないが、少なくとも私見では、「漁色家」秀次の強要はこの事件において、にわかに信用できないと考えられる。
一方、駒姫との関係ないかもしれないが、義光は秀次との交流はその前にすでに始まったようだ。天正十九年と推定される五月三日付の書状によれば、義光は京都から尾張を経て山形に帰る際、秀次に厚意を受けたらしい。その後、山形に着いた義光は、山形の到着を報じると共に、秀吉と秀次に良い馬をそれぞれ献上したいとし、とりわけ、秀次へ献上する馬は奥州へ「御出馬」の際に用意しておくと述べた。(注十六)
この書状を読む限り、義光は秀次に急接近し、それを通じて秀吉との関係を緊密化する思惑は容易に読み取れる。思えば、当時の秀次は天下統一を成し遂げた豊臣政権の後継者の最有力候補でもあり、大名たちは同じ考えを抱えていても、別に不思議ではないから、義光が自ら駒姫を献上したという『成実記』の見方は、むしろ事実に近いのではないか。
だが、その結果、義光も、同じく家臣を通じて秀次に接近したため、秀次事件に巻き込まれた政宗も、事件後に秀吉側から疑惑をかけられた。駒姫の死は極端的にいえば、父の義光の政治利益のために犠牲してしまったといえるが、その死にともない、最上家と豊臣政権のパイプは共に葬り去り、義光にとって最愛の娘の横死を悔みながら、新しいパイプ役を差し出すことも忘れてはならない。そこで嫡男の義康の登場が見られる。
義康は慶長年間、秀頼の近習となったから、時間的に考えると、あたかも駒姫の死の直後に、豊臣政権に召し出され、人質として秀頼を祗候しはじめたのではないかと推測される。だが、皮肉なことに、それは後にまたも義康の死の引き金ともなった。最上家の安泰のために、義光は知恵を絞り、豊臣政権と必死に結び付こうとしていたが、その結果は悲惨だった。関ヶ原の戦いに義光は家康に絶対的な忠誠を誓った裏目には、『会津四家合考』が言ったように、豊臣政権への「恨みが深かった」からかもしれない。
■執筆:胡 偉権(歴史家/一橋大学経済学研究科博士後期課程在籍生)
注
一 最上家をめぐる人々#6 【駒姫/こまひめ】
(./?p=log&l=103062)
二 「関白御手懸衆車注文」、『上宮寺文書』
三 小和田哲男 『豊臣秀次−「殺生関白」の悲劇』、PHP新書、2002年
四 藤田恒春 『豊臣秀次』、人物叢書、吉川弘文館、2015年
五 矢部健太郎 『関白秀次の切腹』、KADOKAWA、2016年
六 『山形市史 最上氏関係資料』に収録
七 『仙台叢書』第三冊
八 『伊達治家記録』二、宝文堂出版、1972年
九 『会津四家合考』、国史研究会、1915年
十 『奥羽永慶軍記』復刻版、無明舎出版、2005年
十一 拙稿「鮎貝謀叛事件」の再考―大沢氏の論考に寄せて
(./?p=log&l=416523)
十二 注六に参照
十三 注六に参照
十四 藤井譲治 『織豊期主要人物居所集成』第二版、思文閣出版、2016年
十五 天正19年8月12日付小介川治部少輔ら宛最上義光書状写
十六 『山形県史』十五、古代中世史料上
最上氏といえば、義光のほか、駒姫が一番有名ではないだろうか。彼女は悲劇な人生を送り、若く横死したことは、誰でも哀しき想いをさせる。かつて、片桐繁雄氏は当館のホームページで、いわゆる「秀次事件」における彼女の最期を、すでに詳しく追究している(注一)。
駒姫は秀次のために殺されたことは紛れも無い事実だが、ここでは、視点を変えて、駒姫と秀次を語る歴史像の形成について再考してみたい。ところで、一次史料による限り、彼女の本当の名前は「おいま」の方が有力だが、以下は、耳馴染みの「駒姫」として文を進めたい(注二)。
【1】秀次について
今までの通説では、駒姫の登場は秀次に強く関わった。すなわち、天正十八年の大崎葛西一揆に際して、秀次は駒姫の美しさを知り、山形に立ち寄り、義光に対して駒姫を強要した。義光は固辞したが、秀次の執拗な要請に負けて、可愛がる娘を渋々と差し出したという。
このエピソードは、最近の歴史番組でも紹介され、あまりにも有名である。あたかも「漁色家」と貶される秀次の所行は、後に彼自身の滅亡、そして駒姫の悲惨な死につながるというわけだが、問題はそのエピソード自体はどれほど事実だろうか。
近年の研究では、豊臣政権及び秀次の研究が進められ、小和田哲男氏(注三)をはじめ、近年の藤田恒春氏(注四)と矢部健太郎氏(注五)の近著などから、秀次事件の顛末、そして新しい歴史像が判明されつつある。
要するに、秀次事件は豊臣政権の政争と権力闘争に深く関わり、秀次と叔父の秀吉の間に秀頼のために誤解と矛盾が深まった結果であり、秀次の奇行は後世の軍記に潤色された部分が多く、必ずしも真実ではないなどの指摘が出ている。ここではそれ以上の論及を控えるが、詳しくは各氏の関連書籍をご参照されたい。
【2】通説の形成と仙台藩
さて、本題に戻ると、秀次は駒姫を強要したエピソードはどうだろうか。興味深いことに、最上義光の生涯を語る軍記『最上記』(または『最上義光物語』、注六)は、駒姫のことを全く触れていない。また、駒姫に関する一次史料も皆無に近く、その管見の限り、秀次の強要と駒姫の死を語る初見史料は、伊達氏の重臣である伊達成実の『成実記』(注七)と考えられる。後述するように、仙台藩の藩史で、政宗の一代記である『貞山公治家記録』(注八)においても、駒姫の死を述べる際、基本的には『成実記』の記述を踏襲している。
その後に成立された最上氏を述べる諸軍記、たとえば、後に触れる『会津四家合考』(注九)や『奥羽永慶軍記』(注十)なども『成実記』の記述とは大筋がほぼ類似している。したがって、駒姫をめぐる通説の根元は『成実記』と見て差し支えなかろう。
かつて筆者は天正十六年の鮎貝氏反乱について、『成実記』の性格を触れた(注十一)。再言になるが、その史料は成実が晩年に書いた回憶録であり、片倉景綱と並ぶ政宗の右腕と称えられる成実であれば、その証言の信ぴょう性が高く、簡単に無視することはできない。
だからといって、駒姫の件を含み、その中に書き綴られる様々な事件とエピソードには裏付けられる史料が必ずしも揃えているとも限らない。駒姫の件について、そのまま鵜呑みしては危険である。
【3】秀次の強要は本当か
駒姫の件に関する通説の形成を検証してみよう。まず、『成実記』によれば、秀次は家康とともに九戸一揆を鎮圧するため、奥羽に下向した。家康は岩出山に、秀次は山形に立ち寄った。その後、秀次の切腹を記す部分では、「最上義光の娘(駒姫)をはじめ、三十六人の御目懸衆(女房)を殺害した」(現代語訳は筆者による、以下同)とし、駒姫が巻き込まれたきっかけは「義光の娘は奥州一揆の時、秀次が最上に御在陣の時、(義光から)献上された」ことにあったという。
前出の『貞山公治家記録』巻十九、文禄四年(1595)七月八日条と八月上旬にわたって同じ趣旨の文が記されているが、その間に「この一条は豊臣(秀吉)譜に記されるところと違う。しかし、どちらが事実かはわからないため、当家旧記のまま、ここに記す」という注記が綴った。ここの「旧記」とは『成実記』であり、『治家記録』の編さん者は秀次事件を記述する際に、『成実記』を主要な根拠としていることが明らかである。
ちなみに、『成実記』を読む限り、駒姫の献上は義光が自らしたことであり、秀次が強要したわけではないのである。それでは、「秀次が強要した」という書き入れはいつ、どこに加えられたのか。『最上記』とほぼ同時期に編さんされた『会津四家合考』(1662年成立)巻七・「義光由来の事」に秀次と駒姫の死を「罪のない娘を無理に太閤(秀吉)に殺された」のみで、秀次が強要したことは触れていない。
それに対して、18世紀初頭に成立した『奥羽永慶軍記』巻廿五を読むと、事件の経緯はさらに詳しく、通説の秀次が駒姫の美しさに魅了され、執拗に強要するという内容がようやく見られた。その後に成立した『羽源記』(注十二)、『羽陽軍記』(注十三)などは『奥羽永慶軍記』の説を踏襲し、定説となりつつあった。
『奥羽永慶軍記』の著者は何を根拠として秀次が強要したことを書き入れたかは不明だが、事件の経緯は『成実記』のそれと大差がないから、根本的問題は、やはり『成実記』の記事の信ぴょう性である。以下は簡略に追ってみよう。
『成実記』が述べた、天正十九年夏の秀次の奥州下向は事実ではあるが、秀次は山形に立ち寄ったかは別の問題である。藤井氏によれば、秀次は七月に家康とともに奥州に入ったが、九戸一揆の鎮圧を政宗、蒲生氏郷、そして浅野長政に任せ、自身は八月中旬に三迫まで進軍し、そこに本陣を敷いた。その後の一か月はその動向を語る史料がなく、翌々月の十月中旬に白川、宇都宮に立ち寄って京都へ帰った(注十四)。
そうすると、秀次が山形へ「立ち寄った」ことが可能なのは九月頃でしか考えられず、また、藤井氏によれば、秀次と家康は九戸一揆の平定後、平泉まで足を伸ばしているという。そうすると、総大将格の秀次はずっと家康と同行していたことは自然であり、わざと山形に立ち寄った可能性は全くないわけではないが、極めて低いと思われる。
さらに、九戸一揆を討伐する当時に、最上を経て進軍したのは上杉景勝・大谷吉継なのであり、一方、義光は秀次と家康が二本松についたのを知り、二本松まで両人に謁見した後、一旦山形に戻り、九戸一揆の鎮圧に赴くと自ら語ったから、秀次は山形に立ち寄る予定がなさそうで、義光もまた九戸一揆のために出陣しようとするから、秀次を招く余裕がなかろう(注十五)。逆に言えば、秀次の強要にせよ、義光が自ら娘を献上したことにせよ、駒姫と秀次の対面を可能にしたのは、上記の二本松の面会でしかないが、以上の考察による限り、同年末、義光が上洛した後のことではないかと考えられる。
上記の考察によって『成実記』や『奥羽永慶軍記』による秀次と駒姫のエピソードを全面に否定することはできないが、少なくとも私見では、「漁色家」秀次の強要はこの事件において、にわかに信用できないと考えられる。
一方、駒姫との関係ないかもしれないが、義光は秀次との交流はその前にすでに始まったようだ。天正十九年と推定される五月三日付の書状によれば、義光は京都から尾張を経て山形に帰る際、秀次に厚意を受けたらしい。その後、山形に着いた義光は、山形の到着を報じると共に、秀吉と秀次に良い馬をそれぞれ献上したいとし、とりわけ、秀次へ献上する馬は奥州へ「御出馬」の際に用意しておくと述べた。(注十六)
この書状を読む限り、義光は秀次に急接近し、それを通じて秀吉との関係を緊密化する思惑は容易に読み取れる。思えば、当時の秀次は天下統一を成し遂げた豊臣政権の後継者の最有力候補でもあり、大名たちは同じ考えを抱えていても、別に不思議ではないから、義光が自ら駒姫を献上したという『成実記』の見方は、むしろ事実に近いのではないか。
だが、その結果、義光も、同じく家臣を通じて秀次に接近したため、秀次事件に巻き込まれた政宗も、事件後に秀吉側から疑惑をかけられた。駒姫の死は極端的にいえば、父の義光の政治利益のために犠牲してしまったといえるが、その死にともない、最上家と豊臣政権のパイプは共に葬り去り、義光にとって最愛の娘の横死を悔みながら、新しいパイプ役を差し出すことも忘れてはならない。そこで嫡男の義康の登場が見られる。
義康は慶長年間、秀頼の近習となったから、時間的に考えると、あたかも駒姫の死の直後に、豊臣政権に召し出され、人質として秀頼を祗候しはじめたのではないかと推測される。だが、皮肉なことに、それは後にまたも義康の死の引き金ともなった。最上家の安泰のために、義光は知恵を絞り、豊臣政権と必死に結び付こうとしていたが、その結果は悲惨だった。関ヶ原の戦いに義光は家康に絶対的な忠誠を誓った裏目には、『会津四家合考』が言ったように、豊臣政権への「恨みが深かった」からかもしれない。
■執筆:胡 偉権(歴史家/一橋大学経済学研究科博士後期課程在籍生)
注
一 最上家をめぐる人々#6 【駒姫/こまひめ】
(./?p=log&l=103062)
二 「関白御手懸衆車注文」、『上宮寺文書』
三 小和田哲男 『豊臣秀次−「殺生関白」の悲劇』、PHP新書、2002年
四 藤田恒春 『豊臣秀次』、人物叢書、吉川弘文館、2015年
五 矢部健太郎 『関白秀次の切腹』、KADOKAWA、2016年
六 『山形市史 最上氏関係資料』に収録
七 『仙台叢書』第三冊
八 『伊達治家記録』二、宝文堂出版、1972年
九 『会津四家合考』、国史研究会、1915年
十 『奥羽永慶軍記』復刻版、無明舎出版、2005年
十一 拙稿「鮎貝謀叛事件」の再考―大沢氏の論考に寄せて
(./?p=log&l=416523)
十二 注六に参照
十三 注六に参照
十四 藤井譲治 『織豊期主要人物居所集成』第二版、思文閣出版、2016年
十五 天正19年8月12日付小介川治部少輔ら宛最上義光書状写
十六 『山形県史』十五、古代中世史料上