関東に於ける最上義光の足跡を求め 【5】
関東に於ける最上義光の足跡を求め ―特に関ヶ原戦以後に限定して―
【五 慶長十六年の江戸城普請の頃】
慶長期もやがて終りを告げようとする頃、それは義光も体力の変調からくる肉体の衰えは、それは多方面に渡っての政治的活動にも、多少の変化を与えたのではなかろうか。『当代記』〔十三年条)に、慶長十三年五月頃、義光の在府を伝える記録がある。そこには諸国大名達の献上物の記録の中に、義光と重臣の坂紀伊守の名が見られる。
五月三日 拾 御帽子 最上出羽守
五月八日 五つ 御小袖 最上出羽守
九月九日 百枚 銀子 最上出羽守
九月九日 五拾把 最上綿 坂上紀伊守
ここに坂紀伊守の名が見られるが、紀伊守は義光とは常に行動を共にしている人物で、義光亡き後も家親の身近かに仕え、重要な立場にあった人物である。この年の義光は、昨年の普請手伝い以来、引き続き在府していたのであろうが、消失した慈恩寺の再建に尽力した義光が、三重塔が同年八月に完成の後、翌年の四月に千部会[注1]を行ったというから、この時期には在国していたのであろう。
嫡子の駿河守家親は、その身分は幕臣の一員の如く、同十五年と三年後の正月には、恒例の御謡初めに出席、また琉球王の参府に際し、その奏者役を勤めるなど、江戸での華やかな動きを知ることができる。これらは、晩年期に入った義光にしてみれば、更なる最上家繁栄への道として、歓迎すべきものではあったろうが、これが嗣子としての家親と国元との間に、いつしか疎遠関係が生まれてくるのも、致し方のないことであろう。
この年の工事については、『当代記』は次のように記している。
十六年辛亥三月朔日辛工ヲ起ス、実ハ六日丙午ノ着手ニ係ルト云フ、奥州及信州、関東ノ大名、仙台城主伊達政宗、若松城主蒲生秀行、米沢城主上杉景勝、山形城主最上出羽守、久保田城主佐竹義宣、……助役大名伊達政宗等ハ、自ラ臨テ工事ヲ督シ、将軍秀忠亦殆卜工事ヲ巡視ス、
このように、北からは伊達・佐竹・最上など、前回から引き続いての助役であった。幸いにその詳細については、「伊達政宗記録事蹟記[注2]」に伊達家の工事進行状況が語られている。その中に義光も再三登場している。この時期、義光は在府していたことが分かる。
三月六日、天気快晴、御普請土取始申候、
三月十日、快晴、台徳院御普請場江披為成候、
三月廿三日、雨小ふり、され共御ふしん仕候、将軍様も御出候、佐渡様も御出候、殿様(政宗)も御すきニ御出、御とをり被成候、又したゝめにやとへかへりに、ふしんはへ御出候間、まかり出候へハ、いろいろ御懇切の御意とも候、またひた殿(蒲生)・景勝(上杉)殿、出羽(義光)殿、御奉行衆より、ほりのわりをあるへく候間、わり衆出し申候、
三月廿八日、天気よし、五ツ時、将軍様御出、川島と御意被下候……殿様(政宗)も御出被成候、少おそく候て、将軍様へあひ御申なく候……人足よるまかり出候間、ひた殿・景勝・出羽殿御奉公申合、夜明申候而、人そく出し申ニさため申候、
四月六日、天気くもり、風吹、将軍様御出被成候、……将軍様御成被成候て、御ことは被下候、御なわはり近頃見事之由被仰出候、佐州さま仰ニハ、ひた殿・景勝・出羽殿へも申理へくよし仰候、
四月廿日、朝より曇り、将軍様御出被成候、殿様(政宗)よき処へ御出、一段御仕合ニ候、四ツ比より少々ふり申候、ひる頃皆以人そくあけ申候、出羽殿丁場ニ而、土よせを申候、くちおしきよし申候、
この伊達家の記録から、最上家も他の東北大名達と同様に、手伝いを命ぜられたことが分かる。この工事は七月には終了しているが、藩主達をはじめ、将軍も度々現場に姿を見せていたことが判る。またこの年の三月には、これと並行して全国の大名・小名二百数十名にも禁裏修造の役を課している。
八月、義光は駿府の家康を訪れている。これが単なる時候の挨拶であったのか。「八月二十二日、出羽山形城主最上義光、鴻ヲ家康ニ進ム、家康、之ヲ献ズ」とあり、家康はこれを禁中に献上している。また九月にも家親も駿府入りをして、大鷹を献上している。
■執筆:小野末三
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[注]
1、『寒河江市史・中巻』(寒河江市・平十一年)
2、『東京市史稿・皇城篇』
3、「慶長十六年禁裏御普請帳」(『大日本史料』12編之7)
【五 慶長十六年の江戸城普請の頃】
慶長期もやがて終りを告げようとする頃、それは義光も体力の変調からくる肉体の衰えは、それは多方面に渡っての政治的活動にも、多少の変化を与えたのではなかろうか。『当代記』〔十三年条)に、慶長十三年五月頃、義光の在府を伝える記録がある。そこには諸国大名達の献上物の記録の中に、義光と重臣の坂紀伊守の名が見られる。
五月三日 拾 御帽子 最上出羽守
五月八日 五つ 御小袖 最上出羽守
九月九日 百枚 銀子 最上出羽守
九月九日 五拾把 最上綿 坂上紀伊守
ここに坂紀伊守の名が見られるが、紀伊守は義光とは常に行動を共にしている人物で、義光亡き後も家親の身近かに仕え、重要な立場にあった人物である。この年の義光は、昨年の普請手伝い以来、引き続き在府していたのであろうが、消失した慈恩寺の再建に尽力した義光が、三重塔が同年八月に完成の後、翌年の四月に千部会[注1]を行ったというから、この時期には在国していたのであろう。
嫡子の駿河守家親は、その身分は幕臣の一員の如く、同十五年と三年後の正月には、恒例の御謡初めに出席、また琉球王の参府に際し、その奏者役を勤めるなど、江戸での華やかな動きを知ることができる。これらは、晩年期に入った義光にしてみれば、更なる最上家繁栄への道として、歓迎すべきものではあったろうが、これが嗣子としての家親と国元との間に、いつしか疎遠関係が生まれてくるのも、致し方のないことであろう。
この年の工事については、『当代記』は次のように記している。
十六年辛亥三月朔日辛工ヲ起ス、実ハ六日丙午ノ着手ニ係ルト云フ、奥州及信州、関東ノ大名、仙台城主伊達政宗、若松城主蒲生秀行、米沢城主上杉景勝、山形城主最上出羽守、久保田城主佐竹義宣、……助役大名伊達政宗等ハ、自ラ臨テ工事ヲ督シ、将軍秀忠亦殆卜工事ヲ巡視ス、
このように、北からは伊達・佐竹・最上など、前回から引き続いての助役であった。幸いにその詳細については、「伊達政宗記録事蹟記[注2]」に伊達家の工事進行状況が語られている。その中に義光も再三登場している。この時期、義光は在府していたことが分かる。
三月六日、天気快晴、御普請土取始申候、
三月十日、快晴、台徳院御普請場江披為成候、
三月廿三日、雨小ふり、され共御ふしん仕候、将軍様も御出候、佐渡様も御出候、殿様(政宗)も御すきニ御出、御とをり被成候、又したゝめにやとへかへりに、ふしんはへ御出候間、まかり出候へハ、いろいろ御懇切の御意とも候、またひた殿(蒲生)・景勝(上杉)殿、出羽(義光)殿、御奉行衆より、ほりのわりをあるへく候間、わり衆出し申候、
三月廿八日、天気よし、五ツ時、将軍様御出、川島と御意被下候……殿様(政宗)も御出被成候、少おそく候て、将軍様へあひ御申なく候……人足よるまかり出候間、ひた殿・景勝・出羽殿御奉公申合、夜明申候而、人そく出し申ニさため申候、
四月六日、天気くもり、風吹、将軍様御出被成候、……将軍様御成被成候て、御ことは被下候、御なわはり近頃見事之由被仰出候、佐州さま仰ニハ、ひた殿・景勝・出羽殿へも申理へくよし仰候、
四月廿日、朝より曇り、将軍様御出被成候、殿様(政宗)よき処へ御出、一段御仕合ニ候、四ツ比より少々ふり申候、ひる頃皆以人そくあけ申候、出羽殿丁場ニ而、土よせを申候、くちおしきよし申候、
この伊達家の記録から、最上家も他の東北大名達と同様に、手伝いを命ぜられたことが分かる。この工事は七月には終了しているが、藩主達をはじめ、将軍も度々現場に姿を見せていたことが判る。またこの年の三月には、これと並行して全国の大名・小名二百数十名にも禁裏修造の役を課している。
八月、義光は駿府の家康を訪れている。これが単なる時候の挨拶であったのか。「八月二十二日、出羽山形城主最上義光、鴻ヲ家康ニ進ム、家康、之ヲ献ズ」とあり、家康はこれを禁中に献上している。また九月にも家親も駿府入りをして、大鷹を献上している。
■執筆:小野末三
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[注]
1、『寒河江市史・中巻』(寒河江市・平十一年)
2、『東京市史稿・皇城篇』
3、「慶長十六年禁裏御普請帳」(『大日本史料』12編之7)