最上義光に仕えた二人の土肥半左衛門 【二 増田出身の土肥氏(増田土肥)】:最上義光歴史館

最上義光に仕えた二人の土肥半左衛門 【二 増田出身の土肥氏(増田土肥)】

最上義光に仕えた二人の土肥半左衛門

【二 増田出身の土肥氏(増田土肥)】

 室町・戦国の世を経て、秋田仙北の増田周辺の勢力の一つに、増田城(土肥館)に入っていたのは土肥氏であった。秀吉の「奥羽仕置」の後に、半左衛門の父の次郎道近は最上義光の配下となり、増田地方はその支配下となる。先の天正十年(1582)八月の由利諸衆と小野寺氏との大沢合戦に於いて、小野寺氏の配下に増田播磨守とあるのは、土肥道近が初めて確認された姿であろうか。同十四年(1586)に義光が八口(印内)を攻めた時、道近は小野寺勢として加わっている。
 この土肥氏が義光に従属したのは何時の頃であったろうか。奥州仕置による出羽領主達の勢力圏の変化に伴い、それに反発して、増田地方にも検地反対の一揆が起こる。この一連の騒動の中で、「文禄四年七月二十六日の義光との合戦に於いて、家臣の山田貞久は土肥道近を背負い城中から逃れた」([増田東海林旧記])や、また「東海林隼人をはじめ討死し、土肥氏は城を明け渡した」([五郎兵衛書伝覚])などと伝えられており、道近はその頃から主筋の小野寺氏から離れ、義光に従属していったのではなかろうか。
 慶長五年(1600)の関ケ原の役以後は、小野寺義道が石田三成方に組していたとして、最上勢に攻められた時、その合戦の案内役として、「先年最上ニ降シケル土肥二郎道近(道近カ)、山北旧功ノ者ナレハ伝へ聞、義光ノ前二出テ披露ス……案内ニハ土肥二郎道成・嫡子半左衛門……」([奥羽永慶軍記])と伝えている。ここに小野寺氏の記録の内から、土肥氏の動静の一端を拾ってみる。小野寺氏とは姻戚関係にあったことが分かる。
   
 [西馬内小野寺氏系図]

八之丞  
小野寺佐渡守式部ト号ス、父肥前守同道ニテ庄内へ走り、光安寺と云寺ニ故アリテ逗留シ、其姉婿土肥氏(半左衛門)ヲ因リテ最上義光ニ属ス、後讒言ノ為ニ半左衛門君命ヲ蒙り切腹、拠ナク八之丞おやつヲ伴ヒ、戸沢右京カ元ニ走り、寛文三年死去、

おやつ  
父半左衛門切腹ノ後、叔父八之丞ト共ニ最上戸沢右京方ニ退去、おやつ子ナシ、源八兵衛ヲ養子トシテ戸沢二仕フ、
    
 [戸沢家中分限帳・土肥家系図]

女(おやつ) 
最上家没落後、尼ニ成テ酒田ニ居住シ、後新庄へ来リ長松院へ御奉公仕、老年迄相勤、土肥ノ家断絶ノ義ヲ甚悲ミ、土肥ノ名字相立申度由願ニヨリ、北条六兵衛四男源八兵衛ニ土肥ノ名字名乗可申由被仰付、

源八兵衛 
香雲寺様御代、土肥ノ名字ヲ名乗可申出被仰付、新知四五十石(四百五十石カ)被成下、御広間番相勤享保八年八十一歳ニテ卒、
 
 慶長六年(1601)正月、小野寺義道は徳川家康により改易処分を受け、一族は離散の憂き目を見る。義道の庶兄の西馬内茂道は庄内へ去り、子の八之丞は姉婿の土肥半左衛門を頼り義光に仕える。だが半左衛門亡き後は、その一女(おやつ)を連れ戸沢氏に身を寄せ、その系譜は後に秋田の佐竹氏に仕える。そして戸沢家中に残されたおやつに養子を迎え、増田「土肥」の家名を残した。
 [語伝仙北小野寺氏之次第]には、「義光公上意にて半左衛門殿切腹被成候時分、八之丞知行被召上候而、おやつ殿御同道にて最上戸沢右京殿御頼し……」の記述もあり、これらを集約した『増田郷土史』などは、「……慶長八年に義光は義康を殺した。直接手掛けたのは半左衛門であったが、幾ばくもなくして半左衛門は、関ケ原の役に大坂方と密諜したことが露見、一族ことごとく成敗された」と、軍記類などからの記事をも取り上げ、半左衛門の生涯を語っている。しかし、これらが果たして増田土肥の、真の姿を語っているのだろうか。
■執筆:小野未三

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