最上家をめぐる人々♯33 【宝幢寺尊海/ほうどうじそんかい】:最上義光歴史館

最上家をめぐる人々♯33 【宝幢寺尊海/ほうどうじそんかい】

【宝幢寺尊海/ほうどうじそんかい】 〜伝説にいろどられた祈祷僧〜
   
 むかしは、なにかことがあれば必ずといってよいほど「御祈祷」をしてもらった。戦いに出陣するときなどは、とくに戦勝祈願の行法(宗教的なまじない)をしてもらうのが通例だった。宝幢寺の尊海上人は、義光がとくに深い信頼を寄せた修験僧である。
 天正2年7月7日には義光の軍使となって、伊達輝宗のところへ行った。(『輝宗日記』)
 義光が天童氏を攻めたときのこともよく知られている。
 天童領との境にあたる立谷川が満々たる濁流となって、さすがの最上軍も進めないでいた。ところが、尊海が祈祷をするとたちまち水が引いてしまい、天童城を攻め落とすことができたという。もちろん事実ではない。これがさらに変形して、お伽話風に語られるようになった。天童氏が「喜太郎狐」の幻術を使って最上方を惑わそうとしたので、尊海は「犬」を使って退治した、喜んだ義光は、恩賞として「犬扶持」を与えたという話に仕立てられたのである。
 ともあれ、彼の功績を賞して、義光は自分の信仰していた勝軍地蔵をまつる天童愛宕神社の別当に任じ、1370石という広大な寺領を与えた。
 最上義光歴史館には、宝幢寺住職(たぶん尊海)あて義光の手紙が二通展示されている。
 一通は、平安時代の勅撰集『後撰和歌集』のなかの二首をつらねて消息にしたもの。
 
 「秋風の吹くにつけても問はぬかな 荻の葉ならば音はしてまし
  神無月降りみ降らずみさだめなき時雨ぞ冬のはじめなりける」

 「秋風が吹くにつけても、あなたの来てくださらないのが気掛かりです。荻の葉ならば音ぐらいはするものなのに。今はもはや神無月(旧暦十月)、降ったり降らなかったり、さだめない時雨の雨は、すっかり冬の初めをおもわせます」という意である。
 前の一首は女流歌人として高名な中務(なかつかさ)の作。後の一首は読み人知らず。
 流麗な筆跡と豊かな教養を感じさせるこの手紙からは、二人の深い交流がうかがわれる。それにしても、数多い古典の名歌から二首を選んで時宜に適した手紙にするというのは、なかなかできないことだ。義光にはそれができるだけの教養と、そういうことを楽しむ柔軟な感性があったのである。受け取った尊海も、風雅を解するすぐれた人物だったことを物語るわけである。
 もう一通は、年不記、2月14日付。「道中を安全に守ってもらいありがたい。ご祈祷はそなたが一番だ。何かあったら宝幢寺に連絡をいれるので、これからもよろしく」といった内容である。これまた、尊海の加持祈祷に全幅の信頼をおいている義光の気持ちを率直に表したものといえよう。
 こうした祈祷僧の援助も、信仰心あつい義光の心の支えとなっていたのであろう。
 ところがこの尊海は、義光が亡くなった翌年(1615)、突如山形を去って行方知れずとなってしまう。
 「あの坊さんは、源義経につかえて仙人になった怪僧、常陸坊海尊の生まれ代わりだったのだ」と、町のひとびとはうわさした。霊験あらたかな修験僧として、一般民衆の間にも強い印象を与え、広く知られていたのである。
 宝幢寺は、最上時代には三の丸の南東隅に、およそ六千坪に近い広大な寺地を構えていたが、鳥居時代以後は地蔵町に移転された。その後の山形城主歴代もこの寺を尊崇し、山形地方の真言宗触頭として大きな権勢をふるった。
 江戸時代の終わりごろの『俳風最上仙流』掲載の作品に「ワンワンは寺禄こんこんは無禄なり」とか、「権勢を尻尾で振るは宝幢寺」というのがあり、宝幢寺の勢いが盛んだったことを伝説の「犬」にかかわらせて皮肉っている。
 明治維新の変革で廃寺となり、寺に伝来した宝物類は散逸した。大量の古文書は国立史料館に移管された。明治半ばまで寺院の面影を残していた境内の一部は、終戦後に「もみじ公園」として市民の憩いの場となった。庭は江戸時代中期のすぐれた庭園として知られ、新たに建てられた茶室は、宝幢寺の「宝」と山形名産「紅花」にちなんで「宝紅庵」と名付けられた。
 植木市でにぎわうお薬師様(出羽国分寺薬師堂)の堂は、かつての宝幢寺本堂を明治45年に移したものだ。
■■片桐繁雄著