最上を退去した佐竹内記と一族の仕官先 【七 竹辰之助の行方を追って】
最上を退去した佐竹内記と一族の仕官先
【七 佐竹辰之助の行方を追って】
忍藩の『親類書』を書上げた佐竹伝右衛門は、従兄弟の一人に辰之助の名を挙げている。とすれば、『親類書』の内記の五人の息子達の内に、辰之助の父親が居ても不思議ではない。それは一体、伝右衛門の父を除いた四人の内の一人なのか。
万治三年(1660)佐倉藩改易当時の分限帳に、二百石の禄を食んでいた辰之助と、その母親の名がある。思うに、未だ若輩の辰之助に二百石を給されていたのは、既に父親を亡くし家督を継いでいたからではないか。その父親も内記の子であったのかも知れぬ。しかし、これはあくまで推測の域を出ないのであるが、考えられないこともない。
そして、『親類書』は「堀田市郎殿家来」と、佐倉藩以後の消息を伝えた。この掘田市郎とは推なのか。当時の掘田氏の係累を調べた限りでは、「市郎」を通り名にしている人物は見当たらない。これは改易された藩主正信の「与一郎」の誤りではないか。
正信は佐倉を去り、身柄を信濃飯田藩に移される際に、数十人の家臣が同行しているが、
辰之助もその内の一人ではなかったろうか。時の飯田藩主は、正信の実弟の脇坂安政であ
った。
その後、脇坂氏の播磨竜野への転封により、寛文十二年(1672)に小浜藩酒井氏へ預け替えとなる。そして、正信の素行の悪さから、四名の供のみを従え、最期の地の徳島藩蜂須賀氏へと移り住んだ。『徳川実紀』に日く、「堀田上野介正信こたび松平阿波守綱道に改預らるるにより、その家士四十八人、松平隠岐守定直(松山藩)、松平越中守定書(桑名藩)、脇坂中務少輔安政(竜野藩)にあづけらる」とあり、その他の者達は三藩に分かれ預けられている。松山藩の記録『松山叢談』によれば、「掘田公家来御預一件、集書に左の通上下十五人請取」とあり、二名の家臣とその奥方と子供達、それに下女・中間なども含まれていた。また桑名藩の記録『松平家家譜』でも、五名の家臣とその家族達を含め九名としており、『徳川実紀』の「その家士四十八人」預けらるの記事は、家族をも含めた数であったと思う。ただ残念なことには、 竜野藩のみは未だ解明できておらず、辰之助の消息を未だ解明するに至っていない。
■執筆:小野末三
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【七 佐竹辰之助の行方を追って】
忍藩の『親類書』を書上げた佐竹伝右衛門は、従兄弟の一人に辰之助の名を挙げている。とすれば、『親類書』の内記の五人の息子達の内に、辰之助の父親が居ても不思議ではない。それは一体、伝右衛門の父を除いた四人の内の一人なのか。
万治三年(1660)佐倉藩改易当時の分限帳に、二百石の禄を食んでいた辰之助と、その母親の名がある。思うに、未だ若輩の辰之助に二百石を給されていたのは、既に父親を亡くし家督を継いでいたからではないか。その父親も内記の子であったのかも知れぬ。しかし、これはあくまで推測の域を出ないのであるが、考えられないこともない。
そして、『親類書』は「堀田市郎殿家来」と、佐倉藩以後の消息を伝えた。この掘田市郎とは推なのか。当時の掘田氏の係累を調べた限りでは、「市郎」を通り名にしている人物は見当たらない。これは改易された藩主正信の「与一郎」の誤りではないか。
正信は佐倉を去り、身柄を信濃飯田藩に移される際に、数十人の家臣が同行しているが、
辰之助もその内の一人ではなかったろうか。時の飯田藩主は、正信の実弟の脇坂安政であ
った。
その後、脇坂氏の播磨竜野への転封により、寛文十二年(1672)に小浜藩酒井氏へ預け替えとなる。そして、正信の素行の悪さから、四名の供のみを従え、最期の地の徳島藩蜂須賀氏へと移り住んだ。『徳川実紀』に日く、「堀田上野介正信こたび松平阿波守綱道に改預らるるにより、その家士四十八人、松平隠岐守定直(松山藩)、松平越中守定書(桑名藩)、脇坂中務少輔安政(竜野藩)にあづけらる」とあり、その他の者達は三藩に分かれ預けられている。松山藩の記録『松山叢談』によれば、「掘田公家来御預一件、集書に左の通上下十五人請取」とあり、二名の家臣とその奥方と子供達、それに下女・中間なども含まれていた。また桑名藩の記録『松平家家譜』でも、五名の家臣とその家族達を含め九名としており、『徳川実紀』の「その家士四十八人」預けらるの記事は、家族をも含めた数であったと思う。ただ残念なことには、 竜野藩のみは未だ解明できておらず、辰之助の消息を未だ解明するに至っていない。
■執筆:小野末三
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