最上家をめぐる人々♯32 【一華堂乗阿/いっかどうじょうあ】:最上義光歴史館

最上家をめぐる人々♯32 【一華堂乗阿/いっかどうじょうあ】

【一華堂乗阿/いっかどうじょうあ】 〜山形に招聘された文人〜
   
 桃山時代の山形、つまり最上義光治下の山形文化に大きくかかわった人物として、一華堂乗阿は見逃すことができない。『山形市史』は、さすがにその存在に注目しているが、その経歴や活動業績については、そう詳しくは触れられなかった。
 国文学研究者によると、乗阿は桃山文芸復興期において『源氏物語』『伊勢物語』『古今和歌集』などの古典研究家として、重要な地位をしめる人物とされる。歌学者であり、和歌の達人でもある乗阿は、最上義光の古典文芸の師であり、最上一門の文化的活動の指導者だった。『遍照山光明寺由来記』に、このことがやや詳細に述べられている。
 「徳川家康が伏見にいたおり、最上義光公も上京中に、一華堂乗阿上人が陣所において『源氏物語』の講義をなしたのを聴聞し、切り紙(免許状)まで伝授された。ことに歌道の名僧ゆえ、義光公が非常に信頼し、慶長8年(1603)光明寺へ招請なさった。ここで十八世住職となられたが、その期間ちゅう義光公御一門方々は、いつも連歌の会を催された。このときから、当山の住職は藤沢(神奈川県)の遊行寺(清浄光寺)から相続する定めとなった。
 乗阿上人は、慶長十年京都の金光寺に入られた。元和五年七月十九日遷化、八十九歳」このように山形との関わりを記し、そのあとに、乗阿の出自・経歴や歌道における力量のほどをこまごまと紹介している。
 京都で名が高まって、ついに天皇のお招きを受け、慶長10年6月16日に参内して、後陽成天皇と漢和連句の座で連ねたという。そのときの二人の句。

  冷色可入竹    御製
  タカユル日数夏ノ雨風    乗阿

 その後、百首和歌の席で、天皇・乗阿それぞれ九首を詠み合ったとき、「秋夕」の題で「いつはあれど色なきものの身にしむは あやしき秋の夕なりけり」と乗阿が詠じたのを、「たぐいない秀作」と天皇が感銘なさったという。
 そのほか、歌学の難解なことを勅問なさっても、乗阿はすぐにお答え申し上げた。
 以上が『遍照山光明寺由来記』の大まかな内容である。
 この由来記が執筆されたのは慶安5年(1652)で、最上家改易の30年後、乗阿没後33年のことであるから、光明寺には、十八世住職乗阿のことがまだ色あせずに伝承されていたと考えることができるだろう。
 以下、小高敏郎博士の名著『近世初期文壇の研究』を参考にする。
 乗阿は、甲斐源氏の正嫡、武田信虎の子であるとされるが、とすれば、高名な武田信玄晴信の異母弟になるらしい。『由来記』にもあるように、一説では赤松氏の出で、信虎の養子となったともいう。
 名門武家の出であるが、8歳にして仏門に入った。藤沢遊行寺第二十九世体光上人について学び、今川氏の庇護を受けて成長。この家は、南北朝期の武人にして歌人、今川了俊につながる。駿府は当時、東海道随一の城下で、京都から文人の来訪するもの多く、室町時代の連歌師柴屋軒宗長は、ここに寄留して亡くなった。青少年時代をここで暮らした乗阿にとって、文学・歌学を吸収するに適した環境だったといえるだろう。
 33歳の永禄6年ごろまでに上京し、三条西実枝の父、実条に学び、このころに連歌師里村紹巴とも親交を結んだらしい。37歳ごろには再び駿河にもどり、一華堂の住職となっていた。一華堂は、駿府(現静岡市)本丁通り、時宗、藤沢遊行寺の末寺、長善寺のこと。
 「長善寺一華堂の住職は、在京のときより尊友である」と、紹巴は『富士見道記』に書いているそうである。
 慶長年間になると、乗阿の名声がますます高まり、林羅山、松永貞徳のような若い学者グループとの交渉も出てくる。昭和初期刊行の『静岡市史編纂資料』には、 
「慶長に入ると、伏見にて最上義光に『源氏』の切紙(免許状)を伝授したことが機縁となって、出羽から招請されたから、慶長七[ママ]年五月十二日京都をたち、近江より北陸道を下り、途中歌人連歌師としても厚遇を受け、六月出羽鶴岡[ママ]光明寺に著いた。太守の優待至れり尽せりである。紀行『道之記』一巻がある」
と書かれているという。(文中の「鶴岡」は誤り。)
 ちなみに『静岡市史編纂資料』には、乗阿の詠草として次の作が引いてあるという。

 慶長八年の作として、
   世の声もやすく明けてや今日の春
 
出羽下向の時遊行の会にて
   なかずとも帰らん道の時鳥
   袖の香とめよ宿の橘

 「出羽下向の時」とあるのが興味を引くが、乗阿のような大学者が山形に来て足掛け3年を暮らし、義光や一門の人たちに連歌や古典の講義を行なったというのも、文人義光の時代なればこそであろう。家老として重きをなした東根氏、里見薩摩守景佐の一家も連歌を好み、里村昌琢の指導をも受けて、紅花を土産として届けたこともある(慶長12年7月27日付、景佐あて昌琢書状)。
 小高博士は独自の調査から次のように述べておられる。
 「義光は文事を好み、その連歌一座の記録なども伝わる。……『道之記』は現存すると思って目下探索中だが、まだ目睹の機を得ない。」
 乗阿作の『道之記』が見つかれば、当時の出羽国山形の様子が、なにかわかるのではないかと思われるが、はたしてどこにあるものか。いつか、どこかから出現するのを、大いに期待しているところである。

* * *

ここまで書いていたところ、平成18年夏に山形市七日町の光明寺で、秘蔵の古文書類を拝見する機会が与えられた。そしてそこで、筆者は驚くべき僥倖に恵まれた。
 一見なんの飾りもない未表具の巻物の端をめくってみたら、その第一行に『最上下向道記』(もがみげこう/みちのき)とあるのだ。読み進んでみると、小高博士のいう『道之記』に違いなかった。
 さらにもう一巻、やや大振りのこれまた質素な体裁の巻物があって、見るとこれが小高博士の紹介された「当座和歌百首」写本だった。博士はこれはもはや戦災に遭って失われたのではないかと案じておられたものだった。後陽成上皇、桂離宮の主智仁親王その他、そうそうたる堂上貴顕に交じって、乗阿の作が載せられているのである。
 ここでは、山形について書かれている『道記』を、簡単に紹介しておきたい。
 乗阿は出羽太守最上義光の勧めに従って出羽に行こうと心を固め、慶長8年5月12日に京都を発つ。
 逢坂の関で見送りの友人と別れ、船路、山路の旅となる。落馬して腰を痛めては駕籠に乗り、旅寝重ねてついに越後本庄から出羽庄内の鶴岡に着く。おりから鶴岡城は普請の最中。奉行の者は主君から前もって連絡を受けていたと見えて、行く先々の道中をいろいろと世話してくれた。舟で最上川をさかのぼって山形に近づけば、なんと美しい町だったことか。
 「山形も近くなれば、つくり並べたる家々数多く、柳桜植ゑぬ門もなく、見る目かがやくばかりなれば、おぼえずして又もとの都のうちに帰り入るかと、聞きしにはまさりはベりぬ」
 出羽五十七万石の府城山形の様子を「見る目かがやくばかり」「又もとの都のうちに帰り入るか」と思われたと賛嘆しているのである。
 たぶん町に入ってからであろう。行く手の方から大勢でこちらに来る。何事かと駕籠を止めて見たら、なんと太守・最上義光公が私を迎えに来てくださったのだった。
 「はるばるとさ迷い下ってきた心細さも、力がついた心地」と乗阿は書く。
 光明寺に入って十八世住職となったわけだが、米穀・金銭はたっぷり、まことに暮らしやすい。最上一門、家臣たちが次々と訪問する。どうやら都で知り合った者も少なくなかったらしい。近くには西行法師が「枯れ野のすすき形見とぞみる」と詠じた藤原実方の基もある。あこやの松もある。そのうち行って見ようとしているころに、七夕になった。
 ここで乗阿は七夕の節句のご挨拶として、一首を義光に差し上げる。
 
 いでてもやあこやの松の木がくれも あらぬ今宵の星逢ひの空
 
 義光の返歌         
  七夕も逢ふ夜となればしのぶかな あこやの松の木がくれにして
 
京都の上層知識人が伝統的に身に付けていた和歌の贈答である。素人目には、乗阿の歌もさることながら、義光の歌もまた一段と簡潔ながら情緒豊かである。
 散文のなかに和歌・発句・漢詩句を散りばめた伝統的スタイルの紀行文である。短編ではあるが、乗阿の人柄がうかがわれ、連中の出来事などもさりげなく軽妙に記述されており、さすが一流文人という印象がある。
 光明寺の本は写本。「一花堂乗阿自筆の本をもって、今これを書写し、光明寺の宝蔵に納め終わりぬ/元禄三年七月二十一日/光明寺二十四世/其阿量光」と漢文で巻末奥書がなされている。元禄3年は1590年、松尾芭蕉が「奥の細道」の旅で山寺立石寺を訪れたのは、ちょうど一年前のことだった。
 乗阿の墓碑は、光明寺境内、斯波兼頼墓の参道左側に建っている。大文人の墓じるしと知る人はおそらくあまりいなかったのではあるまいか。
■■片桐繁雄著