最上を退去した佐竹内記と一族の仕官先 【五 奥平美作守に仕えた佐竹氏】:最上義光歴史館

最上を退去した佐竹内記と一族の仕官先 【五 奥平美作守に仕えた佐竹氏】

最上を退去した佐竹内記と一族の仕官先

【五 奥平美作守に仕えた佐竹氏】

 忍藩の『親類書』から、佐竹内記の子の儀左衛門と、その一子の市大夫が奥平氏の家中に居たことが分かる。この儀左衛門の奥平氏への仕官の時期はいつ頃であったか。[家臣従属之時代]によると、美作守忠昌の代に採用の藩士は七十名を数えるという。そして、その中に儀左衛門も含まれているから、忠昌の宇都宮藩当時の召抱えであったことが分かる。
 奥平美作守忠昌は、祖母を徳川家康の長女として、祖父信昌の代から家康の知遇を受け、三河譜代の大名として成長してきた。信昌は関ヶ原の戦いの功により、美濃加納藩十万石に封ぜられたが、子の家昌は奥平氏嫡流として、宇都宮にて十万石を領した。元和五年(1619)忠昌の時に下総古河に移ったが、三年後には前任地の宇都宮に再転封となる。寛文八年(1668)昌能の時、父の死去に際し藩内にて不手際があり、二万石を減ぜられ山形に移される。さらに子の昌章の貞享二年(1685)に再度、宇都宮へ転封となった。以後、丹波宮津を経て最後の任地となる豊前中津に移ったのは、享保二年(1717)のことである。
 藩主昌能・昌章の代の寛文八年(1668)から貞享二年までの、山形藩当時の分限帳がある。一つの[奥平氏分限帳]には「弐百石 佐竹儀左衛門」(「相果て」との加筆がある)、そして「御家中総領子」の欄に「佐竹儀左衛門  左五右衛門」とあり、左五右衛門が儀左衛門の子であることが分かる。もう一本の[御家中御知行付名之帳]には、「弐百五拾石  佐竹左五右衛門殿」と、父と同じ禄高であることから、その頃は既に家督を継いでいたのだろう。
 儀左衛門の最上時代については、他の兄弟と同様に何も分からない。その奥平氏への仕官の時期は、奥平氏の初期の宇都宮藩当時であろう。また寛文の終り頃まで生きていたようだから、奥平氏の山形藩時代の初期、古巣の山形に足を踏み入れていたに違いない。
 儀左衛門の藩での業績については、何も分からない。もう子の左五右衛門の代となる元禄から宝永の初期の頃に、町奉行としての勤仕を示す[覚書]が、藩庁記録の内に何点か残されている。 
 儀左衛門、左五右衛門の系譜を引く佐竹氏については、[藩庁記録]の内から、所々にその名を見出だすことができ、廃藩に至るまで存続していたことは間違いない。ただ由緒書などの、確かな資料などには恵まれず、確実な結果を得ることはできなかった。ここに断片的ではあるが、[藩庁記録]から佐竹氏の記録を拾ってみよう。

(イ)元禄十四年(1701)頃から、町奉行として各方面との折衝を行っている左五右衛門がいる。儀左衛門の子の左五右衛門であろう。

(ロ)元文四年(1739)、「四月廿三日、佐竹与一左衛門宰府天神へ御代参被仰付候事」とあるが、この与一左衛門とは誰なのか。前項で松平伊賀守に仕えた佐竹氏の内、与二右衛門が藩を退散したことが分かっているが、この二人の名が似ていることから、与二右衛門と関わりを持つ人物ではなかろうか。あくまでも推測であるが。

(ハ)明和三年(1766)、「佐竹与一左衛門・同儀左衛門苗字只今迄ハ武たけ相名乗申候処、此節ヨリ竹之字相認申度伺有之、被御聞置候事」
 これを見ると、同時期に与一左衛門・儀左衛門を名乗る二人の佐竹氏が居たことが分かる。

(ニ)安永四年(1775)、「二月四日、佐竹与一左衛門二男冨吉願之通嫡子ニ被仰付候事」

(ホ)安政六年(1859)、「八月廿八日、元郡奉行・御破損奉行御免   佐竹儀左衛門」
 
 以上、藩庁記録の内から僅かではあるが、佐竹氏の嫡流と思われる人物を拾ってみたが、これ以外に複数の佐竹氏が見られ、佐竹内記から続く一つの系譜により、中津藩家中に於いて、あの最上の息吹を生き生きと感ずることができた。
■執筆:小野末三

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