最上家をめぐる人々♯31 【里村家の人々/さとむらけのひとびと】
【里村家の人々/さとむらけのひとびと】 〜最上家の文芸を指導した〜
日本では中世以来、特定の家が特定分野の職能を受け持つ伝統が一段と顕著になった。和歌の冷泉・二条、絵画の狩野、茶の湯の千家などはよく知られているが、連歌では桃山時代を区切りとして里村家が中心となった。里村一派の人たちは、いずれも最上家と親しかったが、ここでは特に目立つ4人(略系譜、太字で示した)を挙げておこう
略系譜は>>こちら
�里村玄仍。義光同席、31回。
紹巴の長男である。義光が京都で活躍していた文祿慶長初期(1593〜1600)は30歳前だったが、紹巴もこの長男を頼みにしていたようで、いろんな席に帯同している。能書家で、義光らの連歌を美麗な料紙に清書したものが、これまでに四巻見つかっている。『若草山』という連歌指南書を書き写して義光に贈ったのも玄仍だった。
慶長2年(1597)正月には、最上義康と対で短連歌(上五七五と下七七だけ)を詠みあった。
一夜とは霞やへだて今日の春 義康
雪のこりつつ東雲(しののめ)の山 玄仍
『北野社家日記』という古記録の慶長3年10月7日の条に、「最上殿内衆」から依頼されて、北野天満宮へ『源氏物語』を発注し、手土産として最上名産「ろうそく二十丁」を届けたのが玄仍であった。
印刷出版のほとんどなかった当時、書籍を手に入れるには書き写すしか方法がなく、そういう場合、良質の原本を所蔵し、短時日のうちに写本が作れるところとしては、蔵書も学者もそろった北野天満宮が随一だった。「最上殿内衆」の依頼がここに来たのも、自然なことだ。
「内衆」とは普通家来をさす。しかし、最上の家来たちが自らの発意で『源氏物語』五十四帖を発注したとは考えにくい。憶測だが、その背後に義光の三度目の妻、嫁いで間もないうら若い清水夫人がいたのではあるまいか。大名の奥方から直接依頼するわけには、当時はいかなかっただろうから、家来を通すことになるはずだし、誰に頼むかとなれば、紹巴の子息で京都文化界に知己が多く、最上家に親しく出入りしていた玄仍が、都合のよい立場にあったのだろう。できあがった『源氏物語』写本は、最上家側に届けられたはずだが、それがいつなのか、惜しむらくは記録がない。
慶長七年に父紹巴が亡くなったとき、七日ごとに百韻連歌を独りで作った高名な「玄仍独吟七百韻」写本が最上義光歴史館に収蔵されている。
慶長12年(1607)7月4日死去。年齢については幾つかの説があるが、活動した時期や、弟玄仲の年齢などを勘案して、元亀2年(1571)生まれの37歳としてよいように思う。
�里村玄仲。義光同席、21回。
紹巴の次男。天正4年(1576)生まれ、寛永15年(1638)没。流謫の身となった父親について近江に住んだ一時期があるらしい。若かったためか、発句、脇句は少ないが、慶長4年5月5日、最上邸での節句祝連歌では珍しく発句を作った。客として、日野輝資、飛鳥井雅庸、高倉永孝、勧修寺光豊ら、堂上公家衆が4人も列席した座である。
ふけばふくあやめもわかぬ軒端かな 玄仲
義光が脇句を付けたが、墨よごれのため解読できない(京都大学付属図書館所蔵)。
玄仲は、御朱印貿易の豪商、兼河川土木事業家である角倉了以の姪を妻とし、長女「なべ」ほかを産んだ。この「なべ」が、江戸時代の天才的儒学者といわれる伊藤仁斎を産んだ。仁斎は、玄仲の孫、紹巴の曾孫ということになるのだから、血は争えないものだ。
玄仍・玄仲の系統は、その後江戸幕府連歌所で里村北家と呼ばれた。
(ついでだが、角倉了以もまた義光と5回連歌会を同席しており、親しい交流があった。駒姫らを弔う京都瑞泉寺の建立者でもある。)
�里村昌叱。義光との同席、30回。
天文8年(1539)生まれ、義光より6歳年上である。紹巴が教えを受けた里村昌休の子で、紹巴の娘をめとった。紹巴に次ぐ連歌の権威とされ、義光らとの連歌では発句が9回あり、紹巴の11回に次ぐ。やはり重い存在だった。紹巴が近江に追放されている間は、特に指導者としての動きが目立つ。慶長8年(1603)没。
�里村昌琢。義光同席、30回。
天正2年(1574)生まれ、寛永13年(1636)没。昌叱の子。はじめ景敏と名乗り、慶長4年(1599)10月ごろに改名した。ほとんど毎回、父とともに義光らの連歌に加わり、回数も同じである。玄仲同様、発句が見られないのは年齢が若かったせいだろう。脇句も、義光の発句につけた例が一度あるだけだ。
後に江戸幕府連歌所の宗匠になった。里村南家の初代、連歌界の重鎮として尊重された。
義光が連歌を作らなくなった後も、彼は最上一族と連歌をとおして親しかった。徳島里見家文書(東根市史編集資料8)がそれを物語っているが、それについては別項(東根景佐・親宜の項)で書くこととする。
桃山時代から江戸時代初期、里村一派の連歌師、文学者グループは、最上一門と深く豊かな交流をしていたのだった。その影響が山形の文化にどんな痕跡を残したか。この問題は、今後の緻密な検証にまつ必要があるだろう。
■■片桐繁雄著
日本では中世以来、特定の家が特定分野の職能を受け持つ伝統が一段と顕著になった。和歌の冷泉・二条、絵画の狩野、茶の湯の千家などはよく知られているが、連歌では桃山時代を区切りとして里村家が中心となった。里村一派の人たちは、いずれも最上家と親しかったが、ここでは特に目立つ4人(略系譜、太字で示した)を挙げておこう
略系譜は>>こちら
�里村玄仍。義光同席、31回。
紹巴の長男である。義光が京都で活躍していた文祿慶長初期(1593〜1600)は30歳前だったが、紹巴もこの長男を頼みにしていたようで、いろんな席に帯同している。能書家で、義光らの連歌を美麗な料紙に清書したものが、これまでに四巻見つかっている。『若草山』という連歌指南書を書き写して義光に贈ったのも玄仍だった。
慶長2年(1597)正月には、最上義康と対で短連歌(上五七五と下七七だけ)を詠みあった。
一夜とは霞やへだて今日の春 義康
雪のこりつつ東雲(しののめ)の山 玄仍
『北野社家日記』という古記録の慶長3年10月7日の条に、「最上殿内衆」から依頼されて、北野天満宮へ『源氏物語』を発注し、手土産として最上名産「ろうそく二十丁」を届けたのが玄仍であった。
印刷出版のほとんどなかった当時、書籍を手に入れるには書き写すしか方法がなく、そういう場合、良質の原本を所蔵し、短時日のうちに写本が作れるところとしては、蔵書も学者もそろった北野天満宮が随一だった。「最上殿内衆」の依頼がここに来たのも、自然なことだ。
「内衆」とは普通家来をさす。しかし、最上の家来たちが自らの発意で『源氏物語』五十四帖を発注したとは考えにくい。憶測だが、その背後に義光の三度目の妻、嫁いで間もないうら若い清水夫人がいたのではあるまいか。大名の奥方から直接依頼するわけには、当時はいかなかっただろうから、家来を通すことになるはずだし、誰に頼むかとなれば、紹巴の子息で京都文化界に知己が多く、最上家に親しく出入りしていた玄仍が、都合のよい立場にあったのだろう。できあがった『源氏物語』写本は、最上家側に届けられたはずだが、それがいつなのか、惜しむらくは記録がない。
慶長七年に父紹巴が亡くなったとき、七日ごとに百韻連歌を独りで作った高名な「玄仍独吟七百韻」写本が最上義光歴史館に収蔵されている。
慶長12年(1607)7月4日死去。年齢については幾つかの説があるが、活動した時期や、弟玄仲の年齢などを勘案して、元亀2年(1571)生まれの37歳としてよいように思う。
�里村玄仲。義光同席、21回。
紹巴の次男。天正4年(1576)生まれ、寛永15年(1638)没。流謫の身となった父親について近江に住んだ一時期があるらしい。若かったためか、発句、脇句は少ないが、慶長4年5月5日、最上邸での節句祝連歌では珍しく発句を作った。客として、日野輝資、飛鳥井雅庸、高倉永孝、勧修寺光豊ら、堂上公家衆が4人も列席した座である。
ふけばふくあやめもわかぬ軒端かな 玄仲
義光が脇句を付けたが、墨よごれのため解読できない(京都大学付属図書館所蔵)。
玄仲は、御朱印貿易の豪商、兼河川土木事業家である角倉了以の姪を妻とし、長女「なべ」ほかを産んだ。この「なべ」が、江戸時代の天才的儒学者といわれる伊藤仁斎を産んだ。仁斎は、玄仲の孫、紹巴の曾孫ということになるのだから、血は争えないものだ。
玄仍・玄仲の系統は、その後江戸幕府連歌所で里村北家と呼ばれた。
(ついでだが、角倉了以もまた義光と5回連歌会を同席しており、親しい交流があった。駒姫らを弔う京都瑞泉寺の建立者でもある。)
�里村昌叱。義光との同席、30回。
天文8年(1539)生まれ、義光より6歳年上である。紹巴が教えを受けた里村昌休の子で、紹巴の娘をめとった。紹巴に次ぐ連歌の権威とされ、義光らとの連歌では発句が9回あり、紹巴の11回に次ぐ。やはり重い存在だった。紹巴が近江に追放されている間は、特に指導者としての動きが目立つ。慶長8年(1603)没。
�里村昌琢。義光同席、30回。
天正2年(1574)生まれ、寛永13年(1636)没。昌叱の子。はじめ景敏と名乗り、慶長4年(1599)10月ごろに改名した。ほとんど毎回、父とともに義光らの連歌に加わり、回数も同じである。玄仲同様、発句が見られないのは年齢が若かったせいだろう。脇句も、義光の発句につけた例が一度あるだけだ。
後に江戸幕府連歌所の宗匠になった。里村南家の初代、連歌界の重鎮として尊重された。
義光が連歌を作らなくなった後も、彼は最上一族と連歌をとおして親しかった。徳島里見家文書(東根市史編集資料8)がそれを物語っているが、それについては別項(東根景佐・親宜の項)で書くこととする。
桃山時代から江戸時代初期、里村一派の連歌師、文学者グループは、最上一門と深く豊かな交流をしていたのだった。その影響が山形の文化にどんな痕跡を残したか。この問題は、今後の緻密な検証にまつ必要があるだろう。
■■片桐繁雄著