最上家臣余録 【本城満茂 (9)】
最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜
【本城満茂 (9)】
慶長五(1600)年の関ヶ原合戦時には、小野寺氏は一旦東軍へ付いたものの、家康が上杉征伐を中止し引き返すと、失地を回復せんと上杉へ呼応し、湯沢城一帯を攻撃する構えを見せた。『奥羽永慶軍記』長谷堂口会津勢敗北事条には、「同九月廿五日、最上出羽少将義光長谷堂表ノ敵イマタ退カス、陣ヲ堅ク張テ在シカハ後詰シテ追払ハント発馬シ給ヘハ、相従フ人々嫡子修理太夫義安・三男清水大蔵大輔・仙台ノ加勢伊達壱岐守・進藤弥兵衛尉・一族ニハ湯沢豊前守」とあるように、長谷堂合戦に満茂は参加した如く書かれているが、これは明らかな誤りである。この情勢下において遠路湯沢から山形表まで引き返してくることは到底無理な話であって、小野寺氏へ釘付けであったろう。同地域は、前述したように中小規模の国人領主が林立する状態であって、それらが完全に最上家へ服していたかというとそうではなく、状況如何では小野寺方へと鞍替えする危険も十分にあった。混乱した状況の中、孤立した湯沢一帯を確保するのに必死であったと思われる。
一旦は窮地に陥った満茂であるが、関ヶ原での東軍戦勝が報じられると、上杉勢は山形より退却した。頼みの上杉勢が撤退した以上、小野寺氏が最上氏、その背景にある徳川氏に抵抗する事は事実上不可能であり、湯沢一帯を切り取ろうとする動きは無意味な事となった。小野寺氏は、その後の戦後処理で東軍に反したかどで改易され、石見に配流されている。東軍勝利の報に接した最上義光は、上杉勢によって奪取された寒河江・谷地等の諸城を奪還し、翌慶長六(1601)年三月には志駄修理亮が篭る東禅寺城を攻めた。この時満茂は、「(前略)又酒田ノ城北ノ方ヨリ湯沢豊前守満茂大将トシテ、山北勢を催シ打寄ル、」とあるように、山北の国人領主や自らの家臣等を引きつれ、庄内平定に参加している可能性がある (注18)。
直接的な軍事行動によって、天正十六(1588)以降上杉氏の手に渡っていた庄内を奪還した最上家であったが、関ヶ原合戦後の戦後処理によって公的にその領土が認められ、さらに由利郡が加増された(注19)。新給された由利は、元来由利の国人であった岩屋氏(二千三百石)と滝沢氏(一万石)、そして本城満茂(四万石)へと与えられた。由利における満茂の支配体制、あるいは本城氏の家臣団管理を包括する給地の経営や軍役に関する考察は、前述したように『本城市史』を始めとした先行研究において十分な検討がなされているため、本稿ではこれ以降の動向の概略を記するに留めたい。また、由利入部後における本城氏と主家最上の関係と、その権力限界に関する考察と指摘は次稿に譲る。
<続>
(注18) 『奥羽永慶軍記』義光切取田川・飽海事
(注19) 『寛政重修諸家譜』
本城満茂(10)へ→
【本城満茂 (9)】
慶長五(1600)年の関ヶ原合戦時には、小野寺氏は一旦東軍へ付いたものの、家康が上杉征伐を中止し引き返すと、失地を回復せんと上杉へ呼応し、湯沢城一帯を攻撃する構えを見せた。『奥羽永慶軍記』長谷堂口会津勢敗北事条には、「同九月廿五日、最上出羽少将義光長谷堂表ノ敵イマタ退カス、陣ヲ堅ク張テ在シカハ後詰シテ追払ハント発馬シ給ヘハ、相従フ人々嫡子修理太夫義安・三男清水大蔵大輔・仙台ノ加勢伊達壱岐守・進藤弥兵衛尉・一族ニハ湯沢豊前守」とあるように、長谷堂合戦に満茂は参加した如く書かれているが、これは明らかな誤りである。この情勢下において遠路湯沢から山形表まで引き返してくることは到底無理な話であって、小野寺氏へ釘付けであったろう。同地域は、前述したように中小規模の国人領主が林立する状態であって、それらが完全に最上家へ服していたかというとそうではなく、状況如何では小野寺方へと鞍替えする危険も十分にあった。混乱した状況の中、孤立した湯沢一帯を確保するのに必死であったと思われる。
一旦は窮地に陥った満茂であるが、関ヶ原での東軍戦勝が報じられると、上杉勢は山形より退却した。頼みの上杉勢が撤退した以上、小野寺氏が最上氏、その背景にある徳川氏に抵抗する事は事実上不可能であり、湯沢一帯を切り取ろうとする動きは無意味な事となった。小野寺氏は、その後の戦後処理で東軍に反したかどで改易され、石見に配流されている。東軍勝利の報に接した最上義光は、上杉勢によって奪取された寒河江・谷地等の諸城を奪還し、翌慶長六(1601)年三月には志駄修理亮が篭る東禅寺城を攻めた。この時満茂は、「(前略)又酒田ノ城北ノ方ヨリ湯沢豊前守満茂大将トシテ、山北勢を催シ打寄ル、」とあるように、山北の国人領主や自らの家臣等を引きつれ、庄内平定に参加している可能性がある (注18)。
直接的な軍事行動によって、天正十六(1588)以降上杉氏の手に渡っていた庄内を奪還した最上家であったが、関ヶ原合戦後の戦後処理によって公的にその領土が認められ、さらに由利郡が加増された(注19)。新給された由利は、元来由利の国人であった岩屋氏(二千三百石)と滝沢氏(一万石)、そして本城満茂(四万石)へと与えられた。由利における満茂の支配体制、あるいは本城氏の家臣団管理を包括する給地の経営や軍役に関する考察は、前述したように『本城市史』を始めとした先行研究において十分な検討がなされているため、本稿ではこれ以降の動向の概略を記するに留めたい。また、由利入部後における本城氏と主家最上の関係と、その権力限界に関する考察と指摘は次稿に譲る。
<続>
(注18) 『奥羽永慶軍記』義光切取田川・飽海事
(注19) 『寛政重修諸家譜』
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