最上家臣余録 【本城満茂 (7)】
最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜
【本城満茂 (7)】
さて、このように各地を転戦したと見られる楯岡満茂であるが、天正の末期以降特に仙北の小野寺氏との抗争において、最上勢の中でも重要な位置を占めていた。天正十四(1586)年五月に、仙北横手城主小野寺義道は、真室地方を奪還せんと最上境の川井・役内に布陣した。これに対し義光は、長男義康を総大将に、楯岡満茂を副将につけて有屋峠へ出陣させたという。この時義康は未だ若年であったろうから、既に三十を越え、実戦経験豊富な満茂が実際に指揮を取っていたと思われる。その後天正十八(1590)年から翌天正十九年には仙北検地が実行され、義光の政治工作の結果仙北上浦郡が最上家に与えられた。しかしこれには小野寺氏を始めとした仙北の諸氏は不満であったようで、仙北の情勢は緊迫した。
このような情勢下で、文禄四(1596)年九月最上義光は仙北への本格的な侵入を企図する。この時の総大将は楯岡満茂、副将に鮭延秀綱が配され、また小国・延沢・天童・東根に仙北降参の軍勢及び由利衆以上合わせて八百余騎が動員されたという。由利・仙北衆を除けば、動員されているのは河東地域かつ山形以北の城主達であることが注目されるであろうか。鮭延秀綱はもともと小野寺の勢力下にあった国人領主で、仙北の諸国人、地下人とはある程度太いパイプを持っていたと推測される。『奥羽永慶軍記』の記述を見ると、「(前略)中ニモ関口ノ城主小野寺カ一族佐々木喜助春道トイフ者アリ、鮭登思ヒケルハ、(中略)彼ヲ語ラヒ味方トナサハ、山北ヲ攻ルニ心安カルヘシト、密ニ飛檄ヲ以テ是ヲ語ラフ、折シモ春道モ小野寺ニ野心ヲ挟メハ何ノ異論モナク一味ヲソシタリケル、夫ヨリ春道カ計ラヒトシテ、西馬音内肥前守茂道・山田民部小輔高道・柳田治兵衛尉・松岡越前守・深堀左馬の五人心替リシテ最上ニ組ス、」とあり、鮭延秀綱が仙北の諸氏を懐柔し、最上方へ引き込んだことがわかる。実際このように単純に懐柔されたかどうかはわからないが、彼ら小野寺の城持ち家臣は独立性の強い小領主の連合体のような様相を呈していたようで、小野寺氏自体の支配権力はそう強いものではなかった(注15)。故に、最上氏の動向に対応してこれら小領主が最上方へついたのであろう。
(注15) 『秋田県史』(秋田県 1961)
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【本城満茂 (7)】
さて、このように各地を転戦したと見られる楯岡満茂であるが、天正の末期以降特に仙北の小野寺氏との抗争において、最上勢の中でも重要な位置を占めていた。天正十四(1586)年五月に、仙北横手城主小野寺義道は、真室地方を奪還せんと最上境の川井・役内に布陣した。これに対し義光は、長男義康を総大将に、楯岡満茂を副将につけて有屋峠へ出陣させたという。この時義康は未だ若年であったろうから、既に三十を越え、実戦経験豊富な満茂が実際に指揮を取っていたと思われる。その後天正十八(1590)年から翌天正十九年には仙北検地が実行され、義光の政治工作の結果仙北上浦郡が最上家に与えられた。しかしこれには小野寺氏を始めとした仙北の諸氏は不満であったようで、仙北の情勢は緊迫した。
このような情勢下で、文禄四(1596)年九月最上義光は仙北への本格的な侵入を企図する。この時の総大将は楯岡満茂、副将に鮭延秀綱が配され、また小国・延沢・天童・東根に仙北降参の軍勢及び由利衆以上合わせて八百余騎が動員されたという。由利・仙北衆を除けば、動員されているのは河東地域かつ山形以北の城主達であることが注目されるであろうか。鮭延秀綱はもともと小野寺の勢力下にあった国人領主で、仙北の諸国人、地下人とはある程度太いパイプを持っていたと推測される。『奥羽永慶軍記』の記述を見ると、「(前略)中ニモ関口ノ城主小野寺カ一族佐々木喜助春道トイフ者アリ、鮭登思ヒケルハ、(中略)彼ヲ語ラヒ味方トナサハ、山北ヲ攻ルニ心安カルヘシト、密ニ飛檄ヲ以テ是ヲ語ラフ、折シモ春道モ小野寺ニ野心ヲ挟メハ何ノ異論モナク一味ヲソシタリケル、夫ヨリ春道カ計ラヒトシテ、西馬音内肥前守茂道・山田民部小輔高道・柳田治兵衛尉・松岡越前守・深堀左馬の五人心替リシテ最上ニ組ス、」とあり、鮭延秀綱が仙北の諸氏を懐柔し、最上方へ引き込んだことがわかる。実際このように単純に懐柔されたかどうかはわからないが、彼ら小野寺の城持ち家臣は独立性の強い小領主の連合体のような様相を呈していたようで、小野寺氏自体の支配権力はそう強いものではなかった(注15)。故に、最上氏の動向に対応してこれら小領主が最上方へついたのであろう。
(注15) 『秋田県史』(秋田県 1961)
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