最上家臣余録 【本城満茂 (6)】
最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜
【本城満茂 (6)】
このようにして、満茂は楯岡領を継いでその城主になったが、その後しばらくの満茂の動向に関しては軍記物史料の記述に頼る他は無い。もとより信憑性に疑問のある史料群ではあり、細部にわたって記述が正確であるかというとそうではないだろうが、ある程度満茂の活動の傾向を掴む事はできるであろう。
最上氏の傘下に属した満茂は、義光が最上川河東・河西地域を領国化せんと軍を催した際に、それに参加しているようだ。天正十二(1584)年前後に行われたとされる、寒河江・谷地を攻撃した際も、「最上出羽守義光ハ大勢ヲ引具シ山形ヲ出馬ス(中略)先手ハ氏江尾張守五百余人喚テカヽル、二陣最上豊前守、三陣志村九郎兵衛・山辺六郎、」(注11)とその名が見え、天正九年の真室鮭延氏攻めにおいても、「(前略)山形豊前守・山辺・氏江・志村ヲハシメ七百余騎を引率シ、鮭登ノ城ヘオシ寄セ、」(注12)と一手の大将としての名がみえる。『奥羽永慶軍記』の記述を見ると、真室攻めは義光自らが出向いてそれを成し遂げたように著述されている。だが、義光が真室攻めを氏家守棟主導の元行わせたことは書状史料の面から明白であり(注13)、この記事自体の信頼性には大きな疑問符がつく。だが、真室攻略は祖父義定からの宿願であったとされ(注14)、また庄内へと進出する足掛かりとしても、真室地方の領国化は当時の最上家にあって至上命題だったであろう。故に、可能な限りの戦力を以って真室侵攻に当たったとしてもなんら不思議ではない。楯岡満茂を含む諸領主達の軍勢が、かなりの規模で動員されたと見てよいのではなかろうか。
また、同書・武藤駿河守光安滅亡ノ事条においても、義光が庄内へと攻め入る陣立ての中にその名が見えるが、これ自体の内容は天正十一(1583)年の前森蔵人(東禅寺筑前)による武藤義氏襲殺事件と、天正十五(1587)年に最上氏が東禅寺筑前の動きに呼応し庄内の武藤義興を攻めて庄内をその支配化に置いた事とを混同しており、実際に満茂が庄内へと出陣したとすれば後者の時であろう。
<続>
(注11) 「奥羽永慶軍記」谷地・白鳥落城ノ事条
(注12) 「奥羽永慶軍記」鮭登落城ノ事
(注13) 「楓軒文書纂所集文書」五月二日付庭月宛最上義光書状
(注14) 『山形市史』(山形市 1973)
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【本城満茂 (6)】
このようにして、満茂は楯岡領を継いでその城主になったが、その後しばらくの満茂の動向に関しては軍記物史料の記述に頼る他は無い。もとより信憑性に疑問のある史料群ではあり、細部にわたって記述が正確であるかというとそうではないだろうが、ある程度満茂の活動の傾向を掴む事はできるであろう。
最上氏の傘下に属した満茂は、義光が最上川河東・河西地域を領国化せんと軍を催した際に、それに参加しているようだ。天正十二(1584)年前後に行われたとされる、寒河江・谷地を攻撃した際も、「最上出羽守義光ハ大勢ヲ引具シ山形ヲ出馬ス(中略)先手ハ氏江尾張守五百余人喚テカヽル、二陣最上豊前守、三陣志村九郎兵衛・山辺六郎、」(注11)とその名が見え、天正九年の真室鮭延氏攻めにおいても、「(前略)山形豊前守・山辺・氏江・志村ヲハシメ七百余騎を引率シ、鮭登ノ城ヘオシ寄セ、」(注12)と一手の大将としての名がみえる。『奥羽永慶軍記』の記述を見ると、真室攻めは義光自らが出向いてそれを成し遂げたように著述されている。だが、義光が真室攻めを氏家守棟主導の元行わせたことは書状史料の面から明白であり(注13)、この記事自体の信頼性には大きな疑問符がつく。だが、真室攻略は祖父義定からの宿願であったとされ(注14)、また庄内へと進出する足掛かりとしても、真室地方の領国化は当時の最上家にあって至上命題だったであろう。故に、可能な限りの戦力を以って真室侵攻に当たったとしてもなんら不思議ではない。楯岡満茂を含む諸領主達の軍勢が、かなりの規模で動員されたと見てよいのではなかろうか。
また、同書・武藤駿河守光安滅亡ノ事条においても、義光が庄内へと攻め入る陣立ての中にその名が見えるが、これ自体の内容は天正十一(1583)年の前森蔵人(東禅寺筑前)による武藤義氏襲殺事件と、天正十五(1587)年に最上氏が東禅寺筑前の動きに呼応し庄内の武藤義興を攻めて庄内をその支配化に置いた事とを混同しており、実際に満茂が庄内へと出陣したとすれば後者の時であろう。
<続>
(注11) 「奥羽永慶軍記」谷地・白鳥落城ノ事条
(注12) 「奥羽永慶軍記」鮭登落城ノ事
(注13) 「楓軒文書纂所集文書」五月二日付庭月宛最上義光書状
(注14) 『山形市史』(山形市 1973)
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