最上を退去した佐竹内記と一族の仕官先 【四 松平伊賀守に仕えた佐竹氏】
最上を退去した佐竹内記と一族の仕官先
【四 松平伊賀守に仕えた佐竹氏】
忍藩『親類書』から、佐竹市右衛門・与二右衛門の二名が、松平氏に仕えたことがわかる。内記の五人の息子の内の二人である。
藤井松平伊賀守忠晴が、元和五年(1619)に初めて二千石の旗本となり、小姓組番頭、そして大番頭と出世を重ねながら、二万石の大名として駿河の田中に入封したのは、寛永十九年(1642)九月のことである。この田中藩は幕閣への登竜門として、入・転封の激しい藩であった。松平氏がこの田中を出発点として、掛川を経て丹波亀山に入封したのが慶安元年(1648)、続いて武蔵岩槻へと移ったのは貞享三年のこと。以後、但馬出石から最後の封地となる信州上田に移ったのは、宝永三年(1706)のことである。この新参の譜代大名家も同じことで、その創設期に際しては、諸領地の増加に伴う家臣団の増強もあり、それは上田藩に一万石加増の五万八千石で入封の頃まで続いた。
亀山藩当時の延宝四年(1676)の[御家中年数改]を見ると、寛永から正保の頃までの召抱えが多く見られる。そこに寛永十九年(1642)召抱えとして、佐竹市右衛門と市大夫、弥一兵衛の名がある。[家中旧記私留]に、当時の佐竹氏の略歴が記されている。
[家中旧記私留]の佐竹氏略歴は>>こちら
松平伊賀守忠晴が大名として田中入部の時期が、この大名家の家臣団編成上に於ける、大きな出発点となってくる。この時期に採用した家臣の数は、下層級の者達をも含めると三百名を越えるという。佐竹市右衛門もこの中の一人であった。略歴を見ると、長男の市大夫が家督を継いだのは、市右衛門の亀山藩での隠居後のことで、その後の岩槻藩時代に藩を去ったようだ。そして、次男の弥一兵衛が家督を継いだ。
寛文二年(1662)亀山藩当時の[惣給帳]を見ると、「二百石 佐竹市右衛門」、「七両三人 佐竹市
大夫」とあり、親子で勤めている。また同四年(1664)の[惣役附御給帳]には、「二百石 佐竹市右衛門」、「百五十石 佐竹与二右衛門」、「七両五人 佐竹市大夫」とあり、与二右衛門の寛文三年(1663)頃の仕官が分かる。
岩槻藩当時の貞享四年(1687)の[分限帳]には、隠居した市右衛門の名はなく、「百五十石 佐竹市大夫」、「五人扶持金拾両 佐竹弥一兵衛」、「百五十石 佐竹与次(二) 右衛門」とある。
市右衛門が仕官の寛永十九年(1642)までの間、市右衛門は浪人暮らしを続けていたのかそれとも他藩で勤めていたのか。与二右衛門の寛文三年(1663)の仕官時期は、佐倉藩掘田氏改易の万治三年(1660) から三年後である。掘田氏の分限帳の「佐竹市兵衛」に加筆のある「松平伊賀守殿へ」から、市右衛門は与二右衛門のことかも知れぬ。
あの羽州最上の影を引きずりながら、新天地を求め歩いてきた内記の子息達であった。時代は少し下がり、享保十四年(1729)の[分限帳]には、「佐竹名平 百五十石」とあるから、名平が佐竹氏を継いだ。しかし、幕末の文化十年(1813)と天保十年(1839)の[上田諸士列帳]には、佐竹氏の名は無い。名平の後の佐竹氏の系譜は、何時の間にか絶えてしまったのであろうか。
最上義光の重臣であった本城豊前守満茂の城下絵図に、市右衛門の名がある。最上時代は本城氏の家臣であったのかも知れぬ。
■執筆:小野末三
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【四 松平伊賀守に仕えた佐竹氏】
忍藩『親類書』から、佐竹市右衛門・与二右衛門の二名が、松平氏に仕えたことがわかる。内記の五人の息子の内の二人である。
藤井松平伊賀守忠晴が、元和五年(1619)に初めて二千石の旗本となり、小姓組番頭、そして大番頭と出世を重ねながら、二万石の大名として駿河の田中に入封したのは、寛永十九年(1642)九月のことである。この田中藩は幕閣への登竜門として、入・転封の激しい藩であった。松平氏がこの田中を出発点として、掛川を経て丹波亀山に入封したのが慶安元年(1648)、続いて武蔵岩槻へと移ったのは貞享三年のこと。以後、但馬出石から最後の封地となる信州上田に移ったのは、宝永三年(1706)のことである。この新参の譜代大名家も同じことで、その創設期に際しては、諸領地の増加に伴う家臣団の増強もあり、それは上田藩に一万石加増の五万八千石で入封の頃まで続いた。
亀山藩当時の延宝四年(1676)の[御家中年数改]を見ると、寛永から正保の頃までの召抱えが多く見られる。そこに寛永十九年(1642)召抱えとして、佐竹市右衛門と市大夫、弥一兵衛の名がある。[家中旧記私留]に、当時の佐竹氏の略歴が記されている。
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松平伊賀守忠晴が大名として田中入部の時期が、この大名家の家臣団編成上に於ける、大きな出発点となってくる。この時期に採用した家臣の数は、下層級の者達をも含めると三百名を越えるという。佐竹市右衛門もこの中の一人であった。略歴を見ると、長男の市大夫が家督を継いだのは、市右衛門の亀山藩での隠居後のことで、その後の岩槻藩時代に藩を去ったようだ。そして、次男の弥一兵衛が家督を継いだ。
寛文二年(1662)亀山藩当時の[惣給帳]を見ると、「二百石 佐竹市右衛門」、「七両三人 佐竹市
大夫」とあり、親子で勤めている。また同四年(1664)の[惣役附御給帳]には、「二百石 佐竹市右衛門」、「百五十石 佐竹与二右衛門」、「七両五人 佐竹市大夫」とあり、与二右衛門の寛文三年(1663)頃の仕官が分かる。
岩槻藩当時の貞享四年(1687)の[分限帳]には、隠居した市右衛門の名はなく、「百五十石 佐竹市大夫」、「五人扶持金拾両 佐竹弥一兵衛」、「百五十石 佐竹与次(二) 右衛門」とある。
市右衛門が仕官の寛永十九年(1642)までの間、市右衛門は浪人暮らしを続けていたのかそれとも他藩で勤めていたのか。与二右衛門の寛文三年(1663)の仕官時期は、佐倉藩掘田氏改易の万治三年(1660) から三年後である。掘田氏の分限帳の「佐竹市兵衛」に加筆のある「松平伊賀守殿へ」から、市右衛門は与二右衛門のことかも知れぬ。
あの羽州最上の影を引きずりながら、新天地を求め歩いてきた内記の子息達であった。時代は少し下がり、享保十四年(1729)の[分限帳]には、「佐竹名平 百五十石」とあるから、名平が佐竹氏を継いだ。しかし、幕末の文化十年(1813)と天保十年(1839)の[上田諸士列帳]には、佐竹氏の名は無い。名平の後の佐竹氏の系譜は、何時の間にか絶えてしまったのであろうか。
最上義光の重臣であった本城豊前守満茂の城下絵図に、市右衛門の名がある。最上時代は本城氏の家臣であったのかも知れぬ。
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