最上を退去した佐竹内記と一族の仕官先 【三 忍藩阿部氏『親類書』書上げの佐竹氏】:最上義光歴史館

最上を退去した佐竹内記と一族の仕官先 【三 忍藩阿部氏『親類書』書上げの佐竹氏】

最上を退去した佐竹内記と一族の仕官先

【三 忍藩阿部氏『親類書』書上げの佐竹氏】

 万治三年(1660)佐倉藩主掘田正信は改易を受け、所領没収のうえ実弟の飯田藩主脇坂安政に預けられる。ここに掘田氏家臣団の解体により、多くの浪人達を生むことになるが、それでも掘田一族の諸家への吸収、また諸藩への再仕官の道も残されてはいた。堀田正信時代の分限帳を見ると、その内の百六十余名に、掘田一族以外の諸大名への仕官先の加筆がある。これが万全とはいえないだろうが、何かと救済の道は開けてはいたのであろう。
 『親類書』書上げの寛文五年(1665)当時、伝右衛門は二十三歳というから、生まれは寛永の終り頃だろうか、掘田氏改易の万治三年(1660)当時は十八、九歳であったろうか。父の伝兵衛の死を十年以前としているから、堀田氏改易当時は兄の二代・伝兵衛の代であったろう。伝右衛門の阿部氏への仕官を、「巳二月被召出候」としているから、この寛文五年(1665)二月、伝右衛門はどの程度の禄高で召抱えられたのか。そして何時の頃まで系譜は続いて行ったのだろうか。
 ここで忍藩阿部氏について述べてみよう。当時の藩主豊後守忠秋は、将軍家光の小姓から次第に頭角を現し、寛永三年(1626)に六千石から一万石の大名となる。同十二年(1635)に下野壬生藩主、四年後には五万石にて忍藩へと転封、幕末の文政六年(1823)に陸奥白河に移るまで、阿部氏の領するところとなる。忍藩は「老中の城」として重要視され、政治・軍事的にも幕府権力を支える不可欠な藩であった。忠秋は加増を重ね、寛文三年(1663)には八万石となり、同十一年に退任した。
 佐竹伝右衛門が召抱えられたのは、掘田氏の急激な領地拡大により、浪人などを中心とした新規召抱えによる、家臣団の増強を計っていた時期である。ここに[忠秋様御代 慶安年中分限帳写]がある。その内容から推察すると、寛永から寛文期に至る間の、忠秋時代の家臣団構成の実態を示すものだという。
 例の『親類書』提出者の約八割の姓名が一致するという。しかし、どうしたことか佐竹伝右衛門の名が見当たらないことだ。これは、続いて享保八年(1723)の[拾万石軍役之訳分限帳]などからも、また他の資料等からも、佐竹氏を見付け出すことはできなかった。伝右衛門は仕官を果たした後、幾許もなくして退散したのだろうか。併せて藩内に目を向けると、安食、安恵、岩崎など九氏を数える最上氏旧臣が召抱えられ、それぞれ幕末まで書き継いだ『先祖書・親類書』などを残している。当然のこと、佐竹氏のものは見当たらない。 
■執筆:小野末三

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