最上家をめぐる人々♯25 【東根源右衛門景佐・親宜/ひがしねげんうえもんかげすけ・ちかのり】
【東根源右衛門景佐・親宜/ひがしねげんうえもんかげすけ・ちかのり】
〜徳島に伝わった最上の血筋〜
徳島と言えば蜂須賀家25万余石の城下。「阿波おどり」「十郎兵衛と巡礼お鶴」の人形芝居、鳴門海峡に逆巻く「うずしお」。観光資源には事欠かない。
さて、市の南郊に丈六寺がある。室町時代の重要文化財建造物が立ち並び、質実な中世禅林の面影が今に残る。鬱蒼たる木立ちに囲まれた寺域の一角に、徳島藩の重臣だった里見家の広大な墓地がある。数ある墓標のなかでも特に目につくのが、白い標柱の立つ2基の五輪塔墓である。標柱の銘は、右が「里見家九代 東根源右衛門親宜之墓」、左がその妻「山形城主 最上出羽守義光娘」。
夫は寛文3年11月11日死去。妻は同4年8月6日死去。最上家ゆかりの夫妻が、ここに眠っているのである。
* * *
東根家は山形最上家の一門で、東根を本拠とした。
元和8年(1622)、最上家改易により、幕命によって東根源右衛門親宜は、徳島藩預かりとなる。当初は客分として優遇されたが、藩主蜂須賀家政(蓬庵)の請いを受けて家臣の列に加わり、以後中老格となって藩主に仕え江戸時代を経過する。本姓の里見氏に改めたのは明治初年である。
各種系図でみると、東根氏は天童里見氏の系統とされる。
初代は頼高。徳島に伝わる里見氏『歴代系図』でも頼高を天童頼直の子とし、「居城東根/元祖/里見薩摩守/養源寺殿華屋椿公大居士」と添え書きがある。
東根七代目の頼景が、酒田城攻めのおりに一番乗りをしたが、敵弾に斃れる。即日、弟景佐が義光から跡目相続を許されたうえ軍奉行を命じられ、酒田城攻略に大功があった。これを賞されて、来国光の刀と金短冊の笠印を賜ったという。
義光は57万石となった慶長7年(1602)に、東根家に対して6千石・3千石と2回にわたって知行を加増した。宛行状には「里見薩摩殿」とある。同11年と推定される義光の手紙では「東根薩摩どのへ」とあることから、このころは「里見」のほかに「東根」も名字として使われたらしい。
景佐ら東根一門は、連歌を愛好した。義光が山形に招請した古典研究家にして歌人であった一華堂乗阿が、光明寺においてしばしば連歌を指導したとする古記録があるが、東根一族もまたそういう場に臨席したのであろう。
慶長12年と推定される、7月27日付の景佐あて里村昌琢書状によると、東根家では2年前に連歌一巻の添削をしてもらった。さらに、この年にも新たに二巻を届けて指導を請うた。このとき土産として贈った「紅花二十斤」に、昌琢は「分に過ぎたお志」と感謝した。紅花は、当時最上の名産になっていたのである。
この書状には「玄仍が亡くなったとお聞きでしょう。どんなに驚かれたことか推察いたしております。是非なき次第」と書かれており、連歌の宗匠、里村玄仍の死去は慶長12年7月4日であることから、同書状の年代が確定される。
次に、年不記、壬(閏)十月一日の書状がある。10月が閏月となったのは、景佐の在世中では慶長17年(1612)だけであるから、この年であろう。景佐から家臣高橋雅楽助にあてた書状で、連歌の規則を昌琢に問い合わせたことが記されている。
関ヶ原合戦以後、義光の連歌作品は見られないが、それにもかかわらず、景佐らは独自に京都と連絡を取って、昌琢の指導を受けていたことになろう。
義光が没し、後継者家親が急死し、15歳の藩主源五郎家信のもとで、最上領内が混乱していた元和6年(1620)8月7日、景佐は嫡子親宜あてに遺書をしたためた。
「自分が相果ててしまったならば、源五郎様に相続の御礼に参上せよ・・」に始まり、「源五郎様へのご奉公を大事に」というように、主家を思い、我が家の永続を願う心情が流露している遺書である。同時に、若い最上の当主家信をめぐる重臣たちの不協和ぶりをも、しっかりと見つめ、「山野辺右衛門、小国日向(自分の妻の実家)、楯岡甲斐守光直の三人には、自分の形見を分け与えよ。何ごともこの三人と相談すれば、悪いことはあるまじく……」と教え、その末尾には驚くべき予言を書き残した。
「最上の国も、三年とはもつまい。せめて国替えにでもなったら(以下、意味不詳)」というのである。
明日をも知れぬ病老の身で、最上家の将来に大きな不安をいだいていたのだ。景佐はこの年12月24日に病没した。
この時点で、源右衛門親宜は義光の娘を妻にしていた。最上宗家を支えるべき重要な立場に位置づけられていたのである。
親宜は、慶長20年(1615)5月27日に、主君家親の一字をもらって元服したが、このとき15歳だとすると、生まれは慶長6年(1601)となる。
妻となった女性は、義光の最後の妻、清水夫人のなした娘であろう。名は記録に見えないが、淡路に住んでおられる里見家親族の家では「禧久姫」と伝える。同腹と思われるきょうだいには、義光の五男上山光広(1599生)、六男大山光隆(1602生)があり、「禧久姫」もまたこの兄弟に近い生まれであろう。
元和8年(1622)8月、景佐が懸念していた最上改易が現実となる。源右衛門親宜22歳のこととなるだろう。
親宜は、12月22日、幕命によって預け先とされた徳島に到着する。以後、藩主蜂須賀家政(号蓬庵)はなにかと彼を優遇した。藩主から源右衛門にあてた手紙は『東根市史編集資料第8号』に収録されているが、その数は28通にのぼる。それらは、「四季折々の挨拶から何かと心配りを示す、温かい内容のものばかり」と、最上家研究家、小野末三氏は述べておられる(『新稿 羽州最上家旧臣達の系譜』)。
親宜は4年後の寛永3年(1626)に、1,000石の高祿を給されて藩の重役待遇となる。亡くなったのは前記寛文3年だが、慶長六年生まれとすれば、享年は63歳ということになる。翌寛文4年8月6日に亡くなった妻「禧久姫」も似た年齢だったろうと思う。
思えば、長姉松尾姫は1606年出羽にて没、次姉駒姫はそれより前1595年に京都で悲劇的な死を迎えた。三姉竹姫は改易後、夫氏家親定とともに長州萩に移り住み、1626年43歳で亡くなった。そして、末娘「禧久姫」は、南国徳島で夫とともに40年の歳月を過ごし、奥羽の名門最上家の娘として、生涯を全うしたのだった。
四姉妹のうち、最も幸福な一生だったと言えるかもしれない。
■■片桐繁雄著
〜徳島に伝わった最上の血筋〜
徳島と言えば蜂須賀家25万余石の城下。「阿波おどり」「十郎兵衛と巡礼お鶴」の人形芝居、鳴門海峡に逆巻く「うずしお」。観光資源には事欠かない。
さて、市の南郊に丈六寺がある。室町時代の重要文化財建造物が立ち並び、質実な中世禅林の面影が今に残る。鬱蒼たる木立ちに囲まれた寺域の一角に、徳島藩の重臣だった里見家の広大な墓地がある。数ある墓標のなかでも特に目につくのが、白い標柱の立つ2基の五輪塔墓である。標柱の銘は、右が「里見家九代 東根源右衛門親宜之墓」、左がその妻「山形城主 最上出羽守義光娘」。
夫は寛文3年11月11日死去。妻は同4年8月6日死去。最上家ゆかりの夫妻が、ここに眠っているのである。
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東根家は山形最上家の一門で、東根を本拠とした。
元和8年(1622)、最上家改易により、幕命によって東根源右衛門親宜は、徳島藩預かりとなる。当初は客分として優遇されたが、藩主蜂須賀家政(蓬庵)の請いを受けて家臣の列に加わり、以後中老格となって藩主に仕え江戸時代を経過する。本姓の里見氏に改めたのは明治初年である。
各種系図でみると、東根氏は天童里見氏の系統とされる。
初代は頼高。徳島に伝わる里見氏『歴代系図』でも頼高を天童頼直の子とし、「居城東根/元祖/里見薩摩守/養源寺殿華屋椿公大居士」と添え書きがある。
東根七代目の頼景が、酒田城攻めのおりに一番乗りをしたが、敵弾に斃れる。即日、弟景佐が義光から跡目相続を許されたうえ軍奉行を命じられ、酒田城攻略に大功があった。これを賞されて、来国光の刀と金短冊の笠印を賜ったという。
義光は57万石となった慶長7年(1602)に、東根家に対して6千石・3千石と2回にわたって知行を加増した。宛行状には「里見薩摩殿」とある。同11年と推定される義光の手紙では「東根薩摩どのへ」とあることから、このころは「里見」のほかに「東根」も名字として使われたらしい。
景佐ら東根一門は、連歌を愛好した。義光が山形に招請した古典研究家にして歌人であった一華堂乗阿が、光明寺においてしばしば連歌を指導したとする古記録があるが、東根一族もまたそういう場に臨席したのであろう。
慶長12年と推定される、7月27日付の景佐あて里村昌琢書状によると、東根家では2年前に連歌一巻の添削をしてもらった。さらに、この年にも新たに二巻を届けて指導を請うた。このとき土産として贈った「紅花二十斤」に、昌琢は「分に過ぎたお志」と感謝した。紅花は、当時最上の名産になっていたのである。
この書状には「玄仍が亡くなったとお聞きでしょう。どんなに驚かれたことか推察いたしております。是非なき次第」と書かれており、連歌の宗匠、里村玄仍の死去は慶長12年7月4日であることから、同書状の年代が確定される。
次に、年不記、壬(閏)十月一日の書状がある。10月が閏月となったのは、景佐の在世中では慶長17年(1612)だけであるから、この年であろう。景佐から家臣高橋雅楽助にあてた書状で、連歌の規則を昌琢に問い合わせたことが記されている。
関ヶ原合戦以後、義光の連歌作品は見られないが、それにもかかわらず、景佐らは独自に京都と連絡を取って、昌琢の指導を受けていたことになろう。
義光が没し、後継者家親が急死し、15歳の藩主源五郎家信のもとで、最上領内が混乱していた元和6年(1620)8月7日、景佐は嫡子親宜あてに遺書をしたためた。
「自分が相果ててしまったならば、源五郎様に相続の御礼に参上せよ・・」に始まり、「源五郎様へのご奉公を大事に」というように、主家を思い、我が家の永続を願う心情が流露している遺書である。同時に、若い最上の当主家信をめぐる重臣たちの不協和ぶりをも、しっかりと見つめ、「山野辺右衛門、小国日向(自分の妻の実家)、楯岡甲斐守光直の三人には、自分の形見を分け与えよ。何ごともこの三人と相談すれば、悪いことはあるまじく……」と教え、その末尾には驚くべき予言を書き残した。
「最上の国も、三年とはもつまい。せめて国替えにでもなったら(以下、意味不詳)」というのである。
明日をも知れぬ病老の身で、最上家の将来に大きな不安をいだいていたのだ。景佐はこの年12月24日に病没した。
この時点で、源右衛門親宜は義光の娘を妻にしていた。最上宗家を支えるべき重要な立場に位置づけられていたのである。
親宜は、慶長20年(1615)5月27日に、主君家親の一字をもらって元服したが、このとき15歳だとすると、生まれは慶長6年(1601)となる。
妻となった女性は、義光の最後の妻、清水夫人のなした娘であろう。名は記録に見えないが、淡路に住んでおられる里見家親族の家では「禧久姫」と伝える。同腹と思われるきょうだいには、義光の五男上山光広(1599生)、六男大山光隆(1602生)があり、「禧久姫」もまたこの兄弟に近い生まれであろう。
元和8年(1622)8月、景佐が懸念していた最上改易が現実となる。源右衛門親宜22歳のこととなるだろう。
親宜は、12月22日、幕命によって預け先とされた徳島に到着する。以後、藩主蜂須賀家政(号蓬庵)はなにかと彼を優遇した。藩主から源右衛門にあてた手紙は『東根市史編集資料第8号』に収録されているが、その数は28通にのぼる。それらは、「四季折々の挨拶から何かと心配りを示す、温かい内容のものばかり」と、最上家研究家、小野末三氏は述べておられる(『新稿 羽州最上家旧臣達の系譜』)。
親宜は4年後の寛永3年(1626)に、1,000石の高祿を給されて藩の重役待遇となる。亡くなったのは前記寛文3年だが、慶長六年生まれとすれば、享年は63歳ということになる。翌寛文4年8月6日に亡くなった妻「禧久姫」も似た年齢だったろうと思う。
思えば、長姉松尾姫は1606年出羽にて没、次姉駒姫はそれより前1595年に京都で悲劇的な死を迎えた。三姉竹姫は改易後、夫氏家親定とともに長州萩に移り住み、1626年43歳で亡くなった。そして、末娘「禧久姫」は、南国徳島で夫とともに40年の歳月を過ごし、奥羽の名門最上家の娘として、生涯を全うしたのだった。
四姉妹のうち、最も幸福な一生だったと言えるかもしれない。
■■片桐繁雄著