最上家をめぐる人々♯24 【野辺沢能登守満延/のべさわのとのかみみつのぶ】
【野辺沢能登守満延/のべさわのとのかみみつのぶ】 〜最上家随一の豪傑〜
数多い最上家臣のなかで「豪傑」として名をあげるなら、トップはやはりこの人物ということになろうか。
山形両所宮の鐘を1人ではずし、鶴子(尾花沢市)までもっていったという伝説がある。また、剛力ぶりを試そうとした主君義光が、逆に彼から追われて逃げ、桜の古木にしがみついた。満延がそれを引き離そうとしたら、木が根こそぎ抜けてしまったというお話もある。
中山町長崎円同寺の釣り鐘(長谷堂清源寺蔵。県指定文化財)をかぶって運んだという伝説も、現物があるだけにおもしろい。かぶっても目が見えるように鐘乳を1個もぎ取ったという穴が、その鐘にはあいている。さらに、この人物は只人ではない、天人が生んだ子供なのだなどという話まで作られた。それだけ、彼の豪力は広く知られていたのだろう。
もともとは、尾花沢市野辺沢(現尾花沢市延沢)に城を構えていた豪族で、本姓は「日野」だったらしい。14世紀に東根を支配した平長義につながるとする説もある。
元亀元年(1570)以後の数年間、天童氏を中心とした北部の豪族グループは、出羽南部を統一しようとする最上家に、結束して抵抗していた。
山形の軍勢が攻め立てても、舞鶴山の要害にたてこもった同盟軍は、頑強に抵抗をつづけた。さすがの山形勢も、ともすると追い立てられがちだった。
それというのも、軍略にすぐれ、そのうえ、5尺の鉄棒を振り回して縦横無尽に戦う豪傑満延がいるからだ、なんとかせねばと義光は、譜代の重臣氏家守棟の意見を聞く。氏家はここで「野辺沢の息子と最上の姫君を結婚させて、親類になったらいかが」と進言した。
当時、政略結婚は、大名同士、豪族同士が戦争を避ける方策として、重要な役割をになっていた。当事者はもちろん、一般民衆も、これで戦いがなくてすむのだから、望むところだった。
義光は、満延の嫡子又五郎に長女松尾姫を与え、息子同然に扱うことを約束する。
満延は、義光が自分を高く評価して、息子に娘をくれるとは「弓矢取る身の誉れ」と、ひじょうに喜んだ。こうして野辺沢は同盟から離脱する。
この婚約がいつなされたのか、正確なことはわからない。かりに天童氏が逃亡した天正12年(1584)だとすると、又五郎は3歳、松尾姫は7歳だったことになる。これは、2人の没年と年令からさかのぼっての推定である。
幼い者同士の婚約で、野辺沢が山形側につくと、同盟はたちまち崩壊してしまう。
支えを失い、孤立した天童頼久(頼澄)は、最上勢の攻撃の前にあえなく城を捨てて奥州国分氏をたよって逃亡してしまう。満延は、義光側近の重臣となって、野辺沢2万石を与えられる。
天正18年、義光は軍勢をつれて上京する。そのときは満延が先駆けをつとめた。翌年の正月に、義光は従四位に叙され侍従に任じられた。全国諸侯と同様、豊臣政権の一翼に編入されたわけだ。京都での勤めを終えて帰国する矢先に、満延は病に倒れる。
『延沢軍記』などによると、意識は正常だったが、運動機能が思うに任せぬ病状のようで、あるいは脳梗塞に冒されたのではないかと思われる。口から出る言葉も、とぎれとぎれだった。
「ご家来に加えていただいてから、殿のご恩は数えきれない程でございます。このたびのご上洛にも先駆けを仰せ付けられ、まことに名誉なことでございました。それなのに、ご帰国というときに、このような病にかかり、お供できないのは不忠のいたり、まして私の病気ゆえに出発を延期してくださったご恩は、とうてい忘れることができません。どうぞ一日も早く国元へお帰りなって、まつりごとをなさってください。もし、これが永遠のお別れとなりましたならば、くれぐれも又五郎のことをよろしくお頼み申し上げます」
満延の言葉に、義光も涙ながらにこう言い聞かせた。
「病気のそなたを置いて帰国するのは本意ではないが、そなたも言うとおり国元の政治も大事だし、秀吉公へも帰国の届けを出したこととて、そう延引もできないのだ。又五郎のことは決して粗略にはせぬ。くれぐれも大切に養生してくれ」
そう語り聞かせて、在京中の費用と療養費を過分に与えて、後ろ髪引かれる思いで帰国の途についたのだった。
3月14日、彼は京都で客死する。遺骸は知恩院に葬られた。報せを聞いた義光は、ことのほか悲しんで落涙したという。主従として、人間として、あたたかい心のつながりのあったことが実感される。
娘婿となった又五郎を、義光がたいそう可愛がったことは、義光が九州名護屋から在山形の家臣伊良子信濃あて、文禄2年(1593)5月18日の手紙からうかがわれる。
「野辺沢家内、おのおの堅固のよし、文見申し候て満足申し候。いつかいつか下り申し候て、又五郎夫婦のもの、見申したく候」
このときまでに、2人は祝言をすましていたのであろう。年若い娘夫婦をいつくしむ父親義光が、ここにはいる。
又五郎は、父の跡を嗣いで野辺沢2万石を領する。遠江守康満を名乗っていたが、後で義光の一字を拝領して「光昌」と改名し、最上一門の家老格となる。妻となった松尾姫は、しかし、慶長11年4月1日、29歳で短い生涯を終えた。
ちなみに、尾花沢では例年能登守祭りを開催して、戦国の豪傑をしのんでいる。
■■片桐繁雄著
数多い最上家臣のなかで「豪傑」として名をあげるなら、トップはやはりこの人物ということになろうか。
山形両所宮の鐘を1人ではずし、鶴子(尾花沢市)までもっていったという伝説がある。また、剛力ぶりを試そうとした主君義光が、逆に彼から追われて逃げ、桜の古木にしがみついた。満延がそれを引き離そうとしたら、木が根こそぎ抜けてしまったというお話もある。
中山町長崎円同寺の釣り鐘(長谷堂清源寺蔵。県指定文化財)をかぶって運んだという伝説も、現物があるだけにおもしろい。かぶっても目が見えるように鐘乳を1個もぎ取ったという穴が、その鐘にはあいている。さらに、この人物は只人ではない、天人が生んだ子供なのだなどという話まで作られた。それだけ、彼の豪力は広く知られていたのだろう。
もともとは、尾花沢市野辺沢(現尾花沢市延沢)に城を構えていた豪族で、本姓は「日野」だったらしい。14世紀に東根を支配した平長義につながるとする説もある。
元亀元年(1570)以後の数年間、天童氏を中心とした北部の豪族グループは、出羽南部を統一しようとする最上家に、結束して抵抗していた。
山形の軍勢が攻め立てても、舞鶴山の要害にたてこもった同盟軍は、頑強に抵抗をつづけた。さすがの山形勢も、ともすると追い立てられがちだった。
それというのも、軍略にすぐれ、そのうえ、5尺の鉄棒を振り回して縦横無尽に戦う豪傑満延がいるからだ、なんとかせねばと義光は、譜代の重臣氏家守棟の意見を聞く。氏家はここで「野辺沢の息子と最上の姫君を結婚させて、親類になったらいかが」と進言した。
当時、政略結婚は、大名同士、豪族同士が戦争を避ける方策として、重要な役割をになっていた。当事者はもちろん、一般民衆も、これで戦いがなくてすむのだから、望むところだった。
義光は、満延の嫡子又五郎に長女松尾姫を与え、息子同然に扱うことを約束する。
満延は、義光が自分を高く評価して、息子に娘をくれるとは「弓矢取る身の誉れ」と、ひじょうに喜んだ。こうして野辺沢は同盟から離脱する。
この婚約がいつなされたのか、正確なことはわからない。かりに天童氏が逃亡した天正12年(1584)だとすると、又五郎は3歳、松尾姫は7歳だったことになる。これは、2人の没年と年令からさかのぼっての推定である。
幼い者同士の婚約で、野辺沢が山形側につくと、同盟はたちまち崩壊してしまう。
支えを失い、孤立した天童頼久(頼澄)は、最上勢の攻撃の前にあえなく城を捨てて奥州国分氏をたよって逃亡してしまう。満延は、義光側近の重臣となって、野辺沢2万石を与えられる。
天正18年、義光は軍勢をつれて上京する。そのときは満延が先駆けをつとめた。翌年の正月に、義光は従四位に叙され侍従に任じられた。全国諸侯と同様、豊臣政権の一翼に編入されたわけだ。京都での勤めを終えて帰国する矢先に、満延は病に倒れる。
『延沢軍記』などによると、意識は正常だったが、運動機能が思うに任せぬ病状のようで、あるいは脳梗塞に冒されたのではないかと思われる。口から出る言葉も、とぎれとぎれだった。
「ご家来に加えていただいてから、殿のご恩は数えきれない程でございます。このたびのご上洛にも先駆けを仰せ付けられ、まことに名誉なことでございました。それなのに、ご帰国というときに、このような病にかかり、お供できないのは不忠のいたり、まして私の病気ゆえに出発を延期してくださったご恩は、とうてい忘れることができません。どうぞ一日も早く国元へお帰りなって、まつりごとをなさってください。もし、これが永遠のお別れとなりましたならば、くれぐれも又五郎のことをよろしくお頼み申し上げます」
満延の言葉に、義光も涙ながらにこう言い聞かせた。
「病気のそなたを置いて帰国するのは本意ではないが、そなたも言うとおり国元の政治も大事だし、秀吉公へも帰国の届けを出したこととて、そう延引もできないのだ。又五郎のことは決して粗略にはせぬ。くれぐれも大切に養生してくれ」
そう語り聞かせて、在京中の費用と療養費を過分に与えて、後ろ髪引かれる思いで帰国の途についたのだった。
3月14日、彼は京都で客死する。遺骸は知恩院に葬られた。報せを聞いた義光は、ことのほか悲しんで落涙したという。主従として、人間として、あたたかい心のつながりのあったことが実感される。
娘婿となった又五郎を、義光がたいそう可愛がったことは、義光が九州名護屋から在山形の家臣伊良子信濃あて、文禄2年(1593)5月18日の手紙からうかがわれる。
「野辺沢家内、おのおの堅固のよし、文見申し候て満足申し候。いつかいつか下り申し候て、又五郎夫婦のもの、見申したく候」
このときまでに、2人は祝言をすましていたのであろう。年若い娘夫婦をいつくしむ父親義光が、ここにはいる。
又五郎は、父の跡を嗣いで野辺沢2万石を領する。遠江守康満を名乗っていたが、後で義光の一字を拝領して「光昌」と改名し、最上一門の家老格となる。妻となった松尾姫は、しかし、慶長11年4月1日、29歳で短い生涯を終えた。
ちなみに、尾花沢では例年能登守祭りを開催して、戦国の豪傑をしのんでいる。
■■片桐繁雄著