最上家をめぐる人々♯23 【谷柏相模守/やがしわさがみのかみ】
【谷柏相模守/やがしわさがみのかみ】 〜畑谷合戦で勇戦した武人〜
具体的な地元史料は見つけられないが、他地方の事例から類推して言えば、室町時代(14〜16世紀)を通じて最上氏は多数の在地国人層を従属させてきたはずである。その多くは、おそらく荘園解体期から村落に居館を構え、農民を統率し、土地の名を苗字とする土豪たちだったと考えてよいだろう。
最上氏分限帳などの文書、あるいは各地の伝承などから推察するに、志村、成沢、野辺沢、飯田、富並,牛房野などは上級家臣に組み込まれ、青柳、岩波、柏倉、渋江、下原、常明寺、成生などは、中級家臣グループとして位置づけられたかと思われる。
谷柏氏(箭柏、弥柏、矢桐と書いた例もある)は、かなり大きな領地をもった豪族の家柄で、歴代「相模守」の称を許されたらしい。その何代目かの当主が、義光の家臣として外交・軍事で活躍したのである。
天正2年(1574)。
春から始まった最上家の内紛と、これに干渉して出兵した伊達輝宗軍との抗争を終結させるため、上山の南方、楢下・中山あたりで、和平交渉が始まった。9月1日から10日まで4回の会談に、最上を代表して出席した人物は、譜代の重臣氏家尾張守が二回、上山城主里見民部が一回。そして、同月10日の最終会談に臨んだのが、谷柏相模守だった。伊達側代表は、政宗の側近富塚孫兵衛であった。
最上・伊達ともに満足できる条件を練り上げ、伊達軍を退かせようというのだから、大変な役目だった。交渉がまとまって、伊達軍は礼服着用、里見民部も手出しをしないと約束した。9月12日の午前、おりから降りだした秋雨の中を、輝宗軍は自領米沢へ帰っていった。一件落着である。
このときの谷柏相模守の働きが、氏家尾張守の才覚や里見民部の最上家への忠節とともに民衆の記憶に残り、大きく変形されて民間の説話となったらしい。
「上山城主満兼は、伊達輝宗の援軍を得て、最上義光と柏木山で戦って敗れた。輝宗の奥方が出てきて戦いを止めさせ、輝宗は帰ってしまった。それでも、山形に叛こうとする満兼を討とうと、最上側が画策する。氏家の策謀に従い、谷柏相模は里見民部としめしあわせて、満兼暗殺と城の乗っ取りを成功させた。その後の上山領の治安維持にも、谷柏相模は敏腕を発揮した」というのである。
だが、『義光記』『羽陽軍記』その他に「柏木山合戦」として書き留められたこの話には信憑性がない。史実とは大きく食い違う。
輝宗の妻(義姫。政宗の母)が仲裁したのは、天正16年(1588)である。対立したのは政宗と義光で、輝宗はすでに亡くなっていた。場所も上山の南、中山境である。上山地域はれっきとした最上領で、伊達・上山の連合などあるはずもなかった。『羽陽軍記』はこの合戦を天正7年9月としているが、これまた無根の説で、こうなると全体が作り話である可能性が大きい。
推察するに、氏家、谷柏、里見ら3人が尽力して戦いを終結させた事実をもとに、架空の合戦譚が仕立てられたのであろう。16世紀、義守、義光の時代に、上山と山形が戦ったということ自体、確実な史料からは認められないのである。
次に、谷柏相模の奮戦が語られているのは、慶長5年(1600)出羽合戦のときである。以下、寛政諸家譜『最上系図』、『義光記』『奥羽永慶軍記』などの記事による。
9月13日、畑谷城が直江兼続軍の猛攻撃にさらされていたとき、援軍として派遣されたのは、谷柏相模、飯田播磨、小国日向、富並忠兵衛、日野伊予らだった。
ところが、援軍到着前に畑谷は落城する。山形の援兵はこれを聞いて引き返そうとしたが、谷柏と飯田はそれをさえぎり、
「城は落ちても、残兵や領民がいる。早く行って彼らを救わねばならぬ」
と馬を進めた。手勢を率いて山道を急ぐと、敵兵に追われて、残兵や領民が必死に逃がれてくる。これを見て、飯田は谷柏に向かい、
「この人々を、一人たりとも敵兵から捕らえられぬよう、山形へ連れ帰ってくれ。しば らくは、自分が敵を食い止めよう」
と言って、部下とともに雲霞のごとく寄せ来る敵勢の中に躍りこむ。すでに60歳を越えた老武者である。力戦奮闘することしばし。しかしながら、多勢に無勢、ついに力尽きて討ち死にしてしまう。
それと知った谷柏は、せめて飯田の首なりとも奪い返さねば友情の甲斐もないと、部下に落人を護送するよう命じ、我が身は取って返し、群がる敵兵を蹴散らして戦い、ついに飯田の首を取り戻した。谷柏は友の首をひたたれに包んで、涙ながらに持ち帰ったという。 多くの軍記物語がほぼ一致して語り伝える有名な話で、もちろん、脚色はあるにしても、大筋は史実に近いのではあるまいか。
さて、この勇者、谷柏相模守については、東大史料編纂所蔵『最上義光分限帳』に、次の記載がある。
谷柏
一、高四千石 八騎 鉄砲 十五挺
弓 四張 槍 四十八本 谷柏相模
4千石は、最上家臣のなかでは上位20位ほど。その領地は、成沢分に入っていた黒沢村(430石余)を除く南山形地区全域であろうと思われる。
寛永13年(1636)、山形藩主保科家が発した「上納一紙」によれば、松原、片谷地、谷柏、津金沢の石高合計は約4千200石となり、分限帳の石高にほぼ等しい。ただし、坂紀伊守光秀が長谷堂1万3千石を領するようになると、谷柏相模は他所で四千石の土地を支配することとなる。一時は長瀞城を預かったと伝えられるが、さだかでない。
添え書きの「八騎」とは、戦いに際して谷柏氏に割り当てられた馬上武士の数で、これは村落の富裕な農民と見てよい。実戦では物頭、つまり指揮官となる。
これに鉄砲衆15人、弓衆4人、槍衆48人、馬上を含め計75人を出すよう定められていたわけであるが、いざ出陣となれば、これだけでは済まなかった。
馬上一騎には、4、5人の小者がつくのが普通だったから、谷柏相模の部隊は百人を上回る人数だったと考えてよい。
日ごろは鍬・鎌を握って暮らした農民は、いざ戦いとなれば、刀や槍・鉄砲を手にして戦列に加わらねばならなかった。谷柏氏は最上家に従属しつつ、領内に住む農民層を支配し、村落の秩序を維持していたのである。
谷柏氏の居館が地区内のどこかにあったはずだが、まだ確定されない。斯波兼頼、最上義守、義光らが尊崇したと伝えられる古社[甲箭神社]の付近か、古墳群のある岡のあたりか。いずれ歴史地理的、考古学的調査で判明するだろう。
ところで、国立資料館所蔵「宝幢寺文書」の最上源五郎時代『分限帳』に、「谷柏」の名は記されていない。畑谷の戦いで奮闘してからおよそ20年ばかり後の文献であるから、その間に何らかの異変があって、国人豪族谷柏家は最上を去ってしまったのかもしれぬ。
参考として、白石城主片倉氏家臣の諸系譜から、谷柏関係の記載を捜し出し、それらをつなぎあわせてみると、表のようになる。
表は>>こちら
見るとおり、最上氏麾下の谷柏・飯田・富並らの国人豪族(氏家はたぶん別)は、相互に縁戚関係があったことがわかる。氏家家に生まれた光直に、「谷柏の名跡を相続」と書き入れがあるところを見ると、この家は廃絶させるには惜しい名門と見られていたわけである。
それにしても、義光の信頼を受けて、大きな働きを見せた谷柏相模と、その後継者たちは、いったいどこへ消え去ったのだろうか。
■■片桐繁雄著
具体的な地元史料は見つけられないが、他地方の事例から類推して言えば、室町時代(14〜16世紀)を通じて最上氏は多数の在地国人層を従属させてきたはずである。その多くは、おそらく荘園解体期から村落に居館を構え、農民を統率し、土地の名を苗字とする土豪たちだったと考えてよいだろう。
最上氏分限帳などの文書、あるいは各地の伝承などから推察するに、志村、成沢、野辺沢、飯田、富並,牛房野などは上級家臣に組み込まれ、青柳、岩波、柏倉、渋江、下原、常明寺、成生などは、中級家臣グループとして位置づけられたかと思われる。
谷柏氏(箭柏、弥柏、矢桐と書いた例もある)は、かなり大きな領地をもった豪族の家柄で、歴代「相模守」の称を許されたらしい。その何代目かの当主が、義光の家臣として外交・軍事で活躍したのである。
天正2年(1574)。
春から始まった最上家の内紛と、これに干渉して出兵した伊達輝宗軍との抗争を終結させるため、上山の南方、楢下・中山あたりで、和平交渉が始まった。9月1日から10日まで4回の会談に、最上を代表して出席した人物は、譜代の重臣氏家尾張守が二回、上山城主里見民部が一回。そして、同月10日の最終会談に臨んだのが、谷柏相模守だった。伊達側代表は、政宗の側近富塚孫兵衛であった。
最上・伊達ともに満足できる条件を練り上げ、伊達軍を退かせようというのだから、大変な役目だった。交渉がまとまって、伊達軍は礼服着用、里見民部も手出しをしないと約束した。9月12日の午前、おりから降りだした秋雨の中を、輝宗軍は自領米沢へ帰っていった。一件落着である。
このときの谷柏相模守の働きが、氏家尾張守の才覚や里見民部の最上家への忠節とともに民衆の記憶に残り、大きく変形されて民間の説話となったらしい。
「上山城主満兼は、伊達輝宗の援軍を得て、最上義光と柏木山で戦って敗れた。輝宗の奥方が出てきて戦いを止めさせ、輝宗は帰ってしまった。それでも、山形に叛こうとする満兼を討とうと、最上側が画策する。氏家の策謀に従い、谷柏相模は里見民部としめしあわせて、満兼暗殺と城の乗っ取りを成功させた。その後の上山領の治安維持にも、谷柏相模は敏腕を発揮した」というのである。
だが、『義光記』『羽陽軍記』その他に「柏木山合戦」として書き留められたこの話には信憑性がない。史実とは大きく食い違う。
輝宗の妻(義姫。政宗の母)が仲裁したのは、天正16年(1588)である。対立したのは政宗と義光で、輝宗はすでに亡くなっていた。場所も上山の南、中山境である。上山地域はれっきとした最上領で、伊達・上山の連合などあるはずもなかった。『羽陽軍記』はこの合戦を天正7年9月としているが、これまた無根の説で、こうなると全体が作り話である可能性が大きい。
推察するに、氏家、谷柏、里見ら3人が尽力して戦いを終結させた事実をもとに、架空の合戦譚が仕立てられたのであろう。16世紀、義守、義光の時代に、上山と山形が戦ったということ自体、確実な史料からは認められないのである。
次に、谷柏相模の奮戦が語られているのは、慶長5年(1600)出羽合戦のときである。以下、寛政諸家譜『最上系図』、『義光記』『奥羽永慶軍記』などの記事による。
9月13日、畑谷城が直江兼続軍の猛攻撃にさらされていたとき、援軍として派遣されたのは、谷柏相模、飯田播磨、小国日向、富並忠兵衛、日野伊予らだった。
ところが、援軍到着前に畑谷は落城する。山形の援兵はこれを聞いて引き返そうとしたが、谷柏と飯田はそれをさえぎり、
「城は落ちても、残兵や領民がいる。早く行って彼らを救わねばならぬ」
と馬を進めた。手勢を率いて山道を急ぐと、敵兵に追われて、残兵や領民が必死に逃がれてくる。これを見て、飯田は谷柏に向かい、
「この人々を、一人たりとも敵兵から捕らえられぬよう、山形へ連れ帰ってくれ。しば らくは、自分が敵を食い止めよう」
と言って、部下とともに雲霞のごとく寄せ来る敵勢の中に躍りこむ。すでに60歳を越えた老武者である。力戦奮闘することしばし。しかしながら、多勢に無勢、ついに力尽きて討ち死にしてしまう。
それと知った谷柏は、せめて飯田の首なりとも奪い返さねば友情の甲斐もないと、部下に落人を護送するよう命じ、我が身は取って返し、群がる敵兵を蹴散らして戦い、ついに飯田の首を取り戻した。谷柏は友の首をひたたれに包んで、涙ながらに持ち帰ったという。 多くの軍記物語がほぼ一致して語り伝える有名な話で、もちろん、脚色はあるにしても、大筋は史実に近いのではあるまいか。
さて、この勇者、谷柏相模守については、東大史料編纂所蔵『最上義光分限帳』に、次の記載がある。
谷柏
一、高四千石 八騎 鉄砲 十五挺
弓 四張 槍 四十八本 谷柏相模
4千石は、最上家臣のなかでは上位20位ほど。その領地は、成沢分に入っていた黒沢村(430石余)を除く南山形地区全域であろうと思われる。
寛永13年(1636)、山形藩主保科家が発した「上納一紙」によれば、松原、片谷地、谷柏、津金沢の石高合計は約4千200石となり、分限帳の石高にほぼ等しい。ただし、坂紀伊守光秀が長谷堂1万3千石を領するようになると、谷柏相模は他所で四千石の土地を支配することとなる。一時は長瀞城を預かったと伝えられるが、さだかでない。
添え書きの「八騎」とは、戦いに際して谷柏氏に割り当てられた馬上武士の数で、これは村落の富裕な農民と見てよい。実戦では物頭、つまり指揮官となる。
これに鉄砲衆15人、弓衆4人、槍衆48人、馬上を含め計75人を出すよう定められていたわけであるが、いざ出陣となれば、これだけでは済まなかった。
馬上一騎には、4、5人の小者がつくのが普通だったから、谷柏相模の部隊は百人を上回る人数だったと考えてよい。
日ごろは鍬・鎌を握って暮らした農民は、いざ戦いとなれば、刀や槍・鉄砲を手にして戦列に加わらねばならなかった。谷柏氏は最上家に従属しつつ、領内に住む農民層を支配し、村落の秩序を維持していたのである。
谷柏氏の居館が地区内のどこかにあったはずだが、まだ確定されない。斯波兼頼、最上義守、義光らが尊崇したと伝えられる古社[甲箭神社]の付近か、古墳群のある岡のあたりか。いずれ歴史地理的、考古学的調査で判明するだろう。
ところで、国立資料館所蔵「宝幢寺文書」の最上源五郎時代『分限帳』に、「谷柏」の名は記されていない。畑谷の戦いで奮闘してからおよそ20年ばかり後の文献であるから、その間に何らかの異変があって、国人豪族谷柏家は最上を去ってしまったのかもしれぬ。
参考として、白石城主片倉氏家臣の諸系譜から、谷柏関係の記載を捜し出し、それらをつなぎあわせてみると、表のようになる。
表は>>こちら
見るとおり、最上氏麾下の谷柏・飯田・富並らの国人豪族(氏家はたぶん別)は、相互に縁戚関係があったことがわかる。氏家家に生まれた光直に、「谷柏の名跡を相続」と書き入れがあるところを見ると、この家は廃絶させるには惜しい名門と見られていたわけである。
それにしても、義光の信頼を受けて、大きな働きを見せた谷柏相模と、その後継者たちは、いったいどこへ消え去ったのだろうか。
■■片桐繁雄著