最上家をめぐる人々#3 【最上義定/もがみよしさだ】:最上義光歴史館

最上家をめぐる人々#3 【最上義定/もがみよしさだ】

【最上義定/もがみよしさだ】 〜第九代山形城主〜

 最上義光の父10代義守は、別項で紹介しているように50年を超える最長期の山形城主だった。
 その前の9代義定は、系譜では義光の祖父にあたる。修理大夫。正室は伊達尚宗の娘、稙宗の妹であると、『寛政諸家譜』に記されている。『山形市史』では、この人物は軽く扱われた。
 永正11年(1514)2月、伊達から攻められて敗れ、長谷堂城を占領され、翌年伊達の娘を押しつけられて伊達家の言うがままとなり、そのうえ間もなく死んでしまったという具合に、全くの小物あつかいである。
 だが事実は、そんなつまらぬ人物ではなかったらしい。
 村山地方の諸国人豪族層との連携を固め、地域の安定のためにそれなりの力を発揮したらしいのである。
 『大江氏系図』によれば、次に示した略系図のように、寒河江宗広の娘は「山野辺刑部の子、直広の妻」となっている。この女性が「義定の姑」だというのだから、義定は山野辺氏から妻を入れたことになるわけだ。もちろん正室かどうかはわからない。山形の支族中野家にも、寒河江の娘が嫁いだとされており、この系図を根拠としてみると、山形・山辺・寒河江・中野は、それぞれ婚姻を通じて結ばれていたことになる。

寒河江宗広
 男(母、山野辺刑部の娘)
 女(山野辺刑部の子、直広の妻。山形義定の姑)
 女(中野の妻)

 ただし、山野辺直広の妻なった女性は隣の領主中山家の出だともされるので、どちらが正しいかは、はっきりしない。どちらにしても、1500年代初頭のころは、山形盆地内の諸豪族国人層は、必ずしも対立抗争のみをこととしていたのではなかったらしいのである。
 同系図では、寒河江宗広亡き後の永正2年(1505)のこととして、「山形義定、コノトキ二度山形ヨリ御入部」と記されている。これについては、義定による寒河江攻撃を意味すると、『寒河江市史上巻』では言う。
 義定の軍事力は、この山形盆地域では抜群に強大だったようで、一時は、寒河江氏を攻めて支配下においたとされ、永正元年(1504)慈恩寺が焼け落ちたのは、山形の攻撃によるという見方もある。数年後、永正9〜10年(1512〜3)、庄内地方において武藤・砂越の争乱が起こったときにも、義定は強い関心を示し、寒河江領内熱塩郷に出陣して、警戒に当たったという。
 だが永正11年2月、置賜の伊達稙宗軍が山形に攻め込んだときには、以外にもろかった。
 攻め込んだ理由も、合戦の経過もよくわからないが、長谷堂を主戦場とするこの戦いでは、最上連合軍は大変な負け戦だった。戦死者は千人を超えた。寒河江氏の一族、吉川兵部政周も、山野辺刑部も、最上家につながりのある楯岡、長瀞の城将も戦死したと『大江系図』は語っている。惨憺たる敗北であった。原因は義定の命令が遅れたせい、あるいは義定の到着が遅れたせいだともいう。
 これらの説明は、山形の最上義定が連合体の中核にあったことを意味すると考えてよいだろう。根拠史料の確認は取れていないが、一説では、このとき義定は最上郡方面に出馬していたために遅れたのだとも言われる。
 長谷堂城は占領され、伊達の家臣小簗川親朝がここに駐留した。
 ところが奇妙なことに、その翌年、伊達稙宗は山形に乗り込みもせず、せっかく手に入れた長谷堂城を返し、妹を与え、最上家との関係を固めようと努めている。妹を嫁がせることで、最上家を間接的に支配しようとしたのだと見る向きもあるが、そうではなく、最上には伊達の力を排除するだけの実力があったと見るほうが妥当かもしれない。
 なお、「この戦いで上山城も占領された」とか「敗れた義定は山形城を去って中野に退避した」などと書いた史書も見受けるが、これを裏付ける史料は示されていない。
 義定が最上家の主で、地域諸勢力のリーダーであったとは、『大江系図』からは推測できるわけだが、何分にもほかの史料が根本的に欠けている。義定の名を記した文書や遺品類が、系図以外には残っていないのだ。これはいったいどうしたことだろう。
 永正17年(1520)2月2日死去。一説、3月4日。年令不明。伊達から入った夫人に子がなく、跡をついだのは幼い中野義守だったと、諸書は一致しているが、山辺氏から入った夫人にも子がなかったのか、そのへんはわからない。山形市中野の雲祥院が菩提寺である。
■■片桐繁雄著