館長の写真日記 令和5年7月14日付け:最上義光歴史館

館長の写真日記 令和5年7月14日付け

 現在、市民会館付近の道路沿いで山形城跡の発掘調査が行われています。過去の発掘調査では、本丸や二ノ丸からは貨幣や瓦などが、三の丸からは皿や茶碗などの生活雑器なども出土しています。それら出土品の一部を、当館において展示しています。
 展示物でまず目に付くのが、鯱鉾(しゃちほこ)瓦です。ここで、鯱鉾瓦についておさらいを。「鯱(しゃち)」は想像上の生き物で、頭は龍虎、胴体は魚、「鉾(ほこ)」は、この尾が鉾のように上にそそりたっていることを表し、つまり鉾のように立っている鯱を意味しています。鯱鉾は、建物が火事になると口から水を吐きだし消してくれることから、屋根の上に乗せるそうです。鯱鉾は、瓦とともに中国から入ってきたといわれ、寺院などで用いられていましたが、それを城に取り入れたのが織田信長の安土城、金の鯱鉾としたのが豊臣秀吉の大坂城で、次第に全国に普及したそうです。
 鯱鉾は通常、二体の対で飾られ、雄と雌であったり、同一であったりします。当館では、それぞれ模様の異なる二体を並べて展示していますが、どちらがどうなのかは判断できていません。これとは別に、金箔のあとが残る鯱鉾の一部も展示していますが、鯱鉾全体が金色というものではなく、目や牙、尾ひれのみが金色、ボディは黒色という、そっち系の高級車のようなカラーリングだそうです。
 同展示コーナーには、金箔が張られた軒丸瓦もあります。これは軒先に据える瓦で、「山」の字の文様部分に金箔が張られています。当時は、天下人以外に金箔瓦の使用を許される人は限られていました。
 金箔瓦は、豊臣秀吉が京都に住まうために建てた「聚楽第」に用いられ、屋敷を巡らす白壁と相まって、大層「映える」邸宅であったそうです。周囲には堀が築かれ、外郭の外側には街路が縦横に設けられ、そこには秀吉配下の大名屋敷を配置。最上家の屋敷と伊達家の屋敷が隣接してあったそうです。それらの屋敷もまた金箔瓦であり、聚楽第と御所の間は金箔瓦を葺いた大名屋敷で埋め尽くされ、その様子は屏風絵(尼崎本洛中洛外図)にも残されています。
 ところがこの聚楽第、竣工してわずか8年弱で取り壊されます。聚楽第の完成は天正15年(1587)9月(旧暦、以下同)。まずは秀吉が住み、天正19年(1591)12月に秀次に家督や関白職が譲られると、秀次の邸宅になりました。ところが文禄4年(1595)6月末に突然、秀次に「鷹狩りと号して〜御謀反談合」との謀反の疑いがかけられ、7月15日には秀次切腹事件(享年28)が、そして8月2日には三条河原に秀次の首を据えての妻子の集団処刑が、そう、あの駒姫の悲劇がおきます。
 しかも秀吉は、秀次の痕跡まで消し去ろうと、聚楽第や近江八幡山城の破却を命じました。聚楽第の堀は埋め戻されて基礎に至るまで破壊され、周囲の大名邸宅も同時に取り壊されたとのことです。ちなみに、最上家屋敷跡地からは、山の字に金箔が施された軒丸瓦が見つかっており、山形城の軒丸瓦もこの影響と考えられています。
 金箔瓦だけでもこんな因縁が浮かんできます。当館で展示している軒丸瓦の金箔は大分剥げ落ちていますが、残っている金箔部分は、光のあたり具合で意外なほど輝くことがあります。
 それにしても、親分が金の屋根瓦にすれば、子分も金の屋根瓦にする、というのは、親分の屋敷への憧憬からなのか、子分同士の見栄なのか、親分への忖度なのか、子分同士の同調圧力なのか。もっとも、聚楽第と同時に周囲の屋敷も取り壊された、ということはやはり、あれがこうなので、ということなのでしょう。いずれにしても「亭主の好きな赤烏帽子」どころの話ではなさそうです。


〇 ここだけの話
 先日、某有料放送局のロケがあり、当館の金箔瓦を貸し出しました。大物タレントの冠番組とのことで、当館の宣伝にでもなればありがたいと。取材はすぐに終わり瓦が戻ってきたので、もしかしてサイン色紙ぐらいはとは思ったのですが、それはなく、それどころかこの金箔瓦が番組に登場するのかさえも定かではなく、結局、その大物タレントにあやかることはむずかしいようです。もっとも、あやかるとしても、「TVで紹介!!大物タレントも興味津々!!」などという張り紙を、金箔瓦の脇に張るわけにもいかないのですが。


写真 £亘


写真◆仝丸瓦