「山形市へ新たに寄付された最上義光文書をめぐって」 松尾剛次:最上義光歴史館

「山形市へ新たに寄付された最上義光文書をめぐって」 松尾剛次

「山形市へ新たに寄付された最上義光文書をめぐって」 松尾剛次
山形市へ新たに寄付された最上義光文書をめぐって
           


 令和二(2020)年12月14日、秋田市在住の盒興夫氏から山形市に「天正九(1581)年九月一二日附最上義光知行宛行状」が寄付された。そこで、その文書の紹介と若干の考察を行う。
 本文書は、すでに『山形市史史料編一最上氏関係史料』(山形市、1973)257頁、『山形県史資料篇十五上、古代中世史料1』(山形県、1977)502頁に翻刻、紹介されており、非常によく知られた文書である。大きさは縱31.5センチ、横47センチで、紙は、いわゆる豎紙で使用されている。
 先述のように、本文書は周知の文書であるが、原文書の所在がわからなくなっていたので、今回所有者から寄贈にいたったのは喜ばしい限りである。秋田市在住というように、本文書を伝えた盒恐箸蓮江戸時代に佐竹氏家臣であったが、最上家改易以前は、おそらく最上家家臣であったと考えられている。「最上義光分限帳」には千石の「高橋但馬」など10人の「高橋」がおり、その内の一人が本文書の受給者の可能性がある。
 ところで、本文書は最上義光の印判(判子)研究においてとりわけ注目されてきた。というのも、図のような、いわゆる「七得」の印判(小黒印ともいう)使用における、年付けがわかる最も古い文書だからである。七得は、七徳のことと考えられる。すなわち、「春秋左伝」宣公一二年(紀元前597年)によれば、武の七つの徳を意味するという。その七徳とは、暴を禁じ、兵を治め、大を保ち、功を定め、民を安じ、衆を和せしめ、財を豊にすることである<『日本国語大辞典6』(小学館、2001)>。義光は、そうした武の七徳を理想にし、その思いを印判に込めたのであろう。
 義光は、A〜D型の四種類の印判を使用した。用途が限定された伝馬印のD型を別にすれば、当初は、鼎型のA型を、次にC型の七得の印を、その次にB型の使用が始まったと考えている。それらの印判の中で、もっとも使用頻度が高く、死の直前まで使用されたのが七得(C型)の印であった。印判の使用は、義光の支配領域の拡張と、家臣団の拡大を表している。本文書を翻刻すれば、上記(写真)の様なものである。


A型


B1型


B2型


C型


D型

 内容は、この度の山内での戦いにおいて、走り回っての奉公を行ったので、敵として成敗した安藤九郎兵衛の領地を盒怯鶴に末代にいたるまで支配することを認める、というくらいであろう。すなわち、恩賞として、土地を給付したもので、古文書学で知行宛行状と呼ばれるものである。
 ここで注目されるのは、山内がどこかであるが、はっきりしない。『山形県の地名』によれば、「山内 古口(ふるくち)から下流、清川(きよかわ)(現東田川郡立川町)までの最上川は(約16キロ)、出羽山地を先行、谷を形成しながら横断する。この区間は山内と称され庄内と内陸を結ぶ要路ではあったが、川の両岸は切立った崖となり川に沿って通行することは困難で、古くから舟による通行が盛んであった。現在は最上峡の名で知られる」山内かも知れない。また、安藤九郎兵衛が如何なる人物かも不明であり、今後の研究の進展を待って筆を置こう。 松尾剛次

■執筆:松尾剛次(山形大学名誉教授)「歴史館だより28」より