「『時は今 天が下しる 五月哉』について雑感」 名子喜久雄:最上義光歴史館

「『時は今 天が下しる 五月哉』について雑感」 名子喜久雄

「時は今 天が下しる 五月哉」について雑感

 連歌の冒頭の句を発句と言う。その詠み様に作法があったことは、周知のことである。ただし、十五世紀後半より、発句を独立させて鑑賞する風潮が現れる。今日の俳句につながることは、言うまでもない。

 さて、戦国の武人たちは連歌をたしなみ、風流を心がけていたことは、常識化しつつあるが、それらの人々の発句の中で、著名なものの一つに、明智光秀のそれがある。
 以下にそれを示す。(論述の都合上、第三の紹巴句まで示す。本文は「連歌集」新潮日本古典集成 昭和五十四年 島津忠夫氏校注に依る。)

  賦何人連歌 天正十年五月廿四日
1 ときは今天が下しる五月哉     光秀
2  水上まさる庭の池水       行祐
3 花落つる池の流れをせきとめて   紹巴

 島津氏は光秀句の解釈を、こうとらえている。
 時は今、土岐の一族である自分が天下を治めるべき季節の五月となった。

 信長を討つ決意を秘めたとする解釈は、人々に疑われることもなかった。(あくまで俗説であるが、それを察知した紹巴は「せきとめて」と、中止させようとの意を含ませた句を詠じたとされることもある)江戸期の人々も浄瑠璃や歌舞伎の中などで、そのような解釈を常識として来た。四世鶴屋南北の「時今也桔梗旗挙(ときはいまなりききょうのはたあげ)」一八四八年作は外題でこの発句を活している。これ以前に近松半二等の「三日太平記(みっかたいへいき)」一七六七年作の中で光秀の口にするせりふにこの句が採り上げられている。その場面は、以下の通りである。

 尾田春永(「小田」とも、以下役名)は天下平定を目指し、各方面へ武将を遣し、当人は中国の真柴久吉を助けようと、本能寺に宿泊していた。そこに勘気を蒙って遠ざけられていた武智光秀が、あえて目通りを願い出る。
 光秀は、春永に武人の鑑となってほしいとして、劉備玄徳を例に挙げ直諌する。怒った春永の命で、森蘭丸が、鉄扇で光秀を打ち、要で額を割る。(眉間割り)
 屈辱に耐えていた光秀は「最早これまで」と、謀反を決意しこの発句を呟く。時ならぬ陣太鼓等が打ち鳴らされ人々は狼唄する。小柄を抜いた光秀は「忠孝」と書かれた額を、それで打ち落し、春永に張本が自分であることを告げる。
 
 近世までの人々は、この発句の重要性・意図を、例えば以上のように理解していた。すなわち、謀反の意を読みとっていた。
 近代に至り、この理解に疑義が、桑田忠親氏を中心として、さしはさまれる。論点は二つある。その一は、本文の問題である。底本等は「連歌集」島津氏校注の解題にあるので参照してほしいが、この懐紙の原本はなく、写本の中で「天が下しる」を「天が下なる」とするものもある。後者ならば「世の中すべて五月雨の今にふさわしい光景」との従来の作法通りの自然詠となる。先述した紹巴に関する物語の中には、後に秀吉の追求を怖れた紹巴が書き改めたとするものまである。
 その二は、仮に、光秀が決意を秘めたこの発句を詠じた時に、一座の者などの中に( 連衆は光秀を含め九名、五名は連歌師。光秀の縁者は行澄(ゆきずみ)・光慶(みつよし)の二名)、光秀の意図を察して、信長方に通報するような者がいなかったであろうか、光秀は安心して心情を吐露出来たかという点である。
 言われてみればその可能性もあって、通説を否定する考えの柱となっている。

 以上のことは、光秀という謎に満ちた人物の魅力もあってか、多くの研究書・文芸書に採り上げられている。興味のある方は、サイト等で、詳細を調べてほしい。
 
 今年でNHK大河ドラマは六十作目。この稿を記している時点で様々の困難に直面しているようである。筆者としては、第三作目「太閤記」の佐藤慶が良かったように、個人的には思っている。               

■執筆:名子喜久雄(山形大学名誉教授)「歴史館だより27」より