「最上義光と北楯利長」 胡 偉権:最上義光歴史館

「最上義光と北楯利長」 胡 偉権

「最上義光と北楯利長」 胡 偉権
最上義光と北楯利長

周知の通り、「北館大堰」は最上義光の家臣・北楯利長が命懸けて完成した偉大なる功績である。本館のホームページにおいて、片桐繁雄氏は大堰普請の経緯について詳しく紹介しているが、本稿は視点を少々変えて、家臣に対する主君・義光のお気遣いと、利長の由緒について、もう少し掘り下げたい(註1)。

1.主君義光の素顔
意外なことかもしれないが、「もう一度最上の土を踏みたい、最上川の水を飲みたい」という郷土に強い想いを持つ義光は、礼節的祝言や、軍功・手柄の褒美を除くと、彼が家臣や親族にお気遣いや配慮を示す史料は多く残られない。

最も有名なエピソードは、天正16年(1588)の大崎の乱における妹・義姫との交信や、文禄の役に際して、新婚した娘と婿の野辺沢康満(又五郎、のちに光昌)に会いたいと家臣に報じたことぐらいであろう。それ以外は、ほとんど見られなない。また、北楯利長宛の義光書状や安堵状は11通ほど現存しており、これは、同じ家臣に宛てる義光書状として現存量が最も多いであるから、北楯利長との書信は義光の素顔を知る素材としても、最上義光関連史料としても極めて貴重なものといえる。

一連の書状にはすでにその一部を片桐氏によって現代語訳で紹介されているので、以下は氏の成果を学びつつ、さらに当時の義光と利長のやりとりを見ていこう。

ちょうど大堰が完成する前のものであるが、慶長17年(1612)5月9日付の義光書状では、義光は、諸道具の虫干しのために人を鶴岡城に遣わすと共に、「そちらの(大堰の)普請はどれほど出来たか心許ないが、彼らが戻ってきたら、詳しく報告してくれるだろう」(註2)と利長に報じた。

それに加えて、片桐氏にも紹介された同月18日の書状の冒頭においても「そちらの普請心許ないから、また書状を送る」(註3)と書いており、当時の義光が大堰の進捗を知りたくて、日夜心配している心境は如実に表れる。

だからといって、義光は家臣への慰問を忘れるわけではない。実際、その前の6月20日付の書状で、義光は普請に苦労している利長を心配し、「あなたが日夜の苦労を察す」と言いつつ、さらに「川風が寒いから、頭巾を一枚送る」と述べている(註4)。一行の文ではあるが、陣頭指揮を取る利長の健康を心配する主君・義光の温情が充分にうかがえよう。

結局、大堰は無事で完成した後の8月5日付の書状では、義光は「自分が上洛した際、あなたの功績を幕府に報告する」と告げ、喜びが溢れる様子が容易に想像できる(註5)。その直後の8月20日付の義光書状(註6)では、利長が山形城下の蔵屋敷の新築を賀し、さらに山形城下の下屋敷の所望を上申した。それを聞いた義光は、利長の所望に応え、さらに「山城(山形城)は川風が強いから、あなたが(屋敷を)麓にすることは尤もである。また、下屋敷については、あなたが望んだ通り、蔵屋敷の近くにしてやる」と、功勲者の利長への配慮を特に払っている。

その続きは、「絵図通りに(下屋敷を)あなたに永代に与える。年貢上納を免除し、下屋敷の普請は好きにしてよい」と附言しており、いわば無償で下屋敷を与えるわけである。そもそも、藩の主城に屋敷を下賜されることは、家臣の功績に応える賞与であり、栄誉でもある。義光にとって、利長の貢献がどれほど大きいかは多言を要しないだろう。そして、大手柄を立てた家臣に賞与を惜しまず、十分の配慮を払う主君・義光の素顔がはっきりと表れるのではなかろうか。

2.利長の知行について
前節では、利長に対する義光の褒美と思いやりを触れたが、ここでは、利長について検討しておきたい。そもそも、利長の素性には不明点が多く、一説では狩川楯主と伝われているが、それについては未検証のため、考察する必要がある。そこで、北楯氏の由緒についてより参考に値するのは、利長の孫に当たる北楯十右衛門が著した覚書(註7)である。

それによれば、利長は庄内の出身で、後に狩川楯を預けて、狩川・清川と立谷沢の支配に当たったという。また、地元の郷土史家・上林職応の『大堰由来記』(註8)によれば、元の狩川楯主斎藤氏が義光に滅ぼされた後、北楯利長が入部したとしている。狩川楯の楯主になった理由はわからないが、もともと狩川の在地領主ではなかったことは確かであろう。

ここで注意すべきは、利長の所領と最上家における地位である。実際、下屋敷の下賜のほか、義光は大堰の功績として利長に無音村(現在の鶴岡市無音と思われる)300石を与えた。史料を見れば、その300石は「本之知行に引きだし」(註9)としているから、加増給恩とみてよいだろう。しかし、最上氏の家臣団知行の根本史料として知られる『最上義光分限帳』などでは、利長の禄高は恰も300石となっている。それは無音村300石を指すか、それども利長の本領地の知行を指すかは不明である。さらに10月27日付利長宛義光書状では、「本知三千石」のほか、大堰成就の加恩として義光が利長に「三百石取らせ」るという文言が書き綴られている(註10)。

しかし、「三千石」の知行に疑問視を呈した意見もあるため、以下は少々考察をしておきたい。前掲の『北楯十右衛門覚書』によれば、当時北館氏の領地は狩川・清川と立谷沢で、ほぼ現在の庄内町のあたりである。大堰の開削によって、将来に何万石の新田ができるとはいえ、開削直後の当地ではもちろん、貧しい土地と変わらないはずである。

のちに元和8年に入部した酒井氏が整理された『御知行目録』によれば、狩川村の村高は866石余り、立谷沢七ヶ村は669石余となる。慶長17年から元和8年までは11年しか経っていないため、参考に値する数値と判断される。結局、利長の領地(狩川・清川と立谷沢)の石高が三千石か否かはともかくして、300石ではなく、少なくとも1000石以上ではないかと推定される。

ちなみに、『最上義光分限帳』に記載される家臣団の知行高の実否を裏付けられる資料がなく、後に改易された際、隣国の伊達氏が記録した『最上氏収封諸覚書』(註11)に比較すると、上級家臣クラスの知行高も微かな食い違いが認められることから、『分限帳』の記載には誤記の可能性があるだろうし、もしくは、『最上義光分限帳』の作成者は利長の本知行を知らないかもしれない。『分限帳』については今後の研究を俟たねばならない。

それでは、果たして北楯利長は最上氏の中でどのクラスの家臣だったろうか。それを明示する資料がないが、ほかの史料をもって側面から考えてみよう。まずは慶長16年とされる6月10日付の義光書状では、義光は「近日庄内へ下向するため、路次・宿所の支度」を利長とその父と思われる北楯兵部少輔に命令した(註12)。さらに、7月2日付の義光書状では、「昨日一日に大石田に着いた(中略)明日三日に清川に下る予定で、それを志村伊豆守と下治右衛門に即時に伝えよ」と利長に命じた(註13)。

その他、年未詳10月27日付利長書状で、利長は湯殿山大日坊に対して、材木運送の便宜を図ると報じた上、「今後(最上)川の口に御用があれば、お申し付けください」(註14)と述べた。また、大堰開削の際、義光は利長と「清川・狩川の者ども」を慰問しており、『最上義光分限帳』を見ても、当時、清水、新庄を除き、最上川中下流域を治める家臣が明記されていない。したがって、北楯氏はそこを押さえる家臣であり、そして利長は少なくとも開削前にはすでに清川・狩川のあたりに影響力を持っていたと見てよかろう。

『覚書』もそれを示唆する記述が見られる。時は、家親の代に勃発した一栗兵部の乱である。当時、狩川にいた利長は反乱軍が庄内から最上川に沿って最上郡方面へ侵入するのを防ぐべく、与力家来300人ほどを率いて清川に待ち伏せようとしたが、反乱軍が添川に転進するや、利長は手勢を率いて添川に向かい、そこで一栗兵部の軍勢と激戦した末、兵部の家来を百人ほど討ち取ったという。

むろん、『覚書』のこの一節を裏付けられる史料がないため、すべて信用できないとはいえ、以上の史料を合わせて見ると、利長の出自と知行高が定かではないにもかかわらず、少なくとも中級クラスの家臣と考えてよかろうし、所領地の地理的条件と筆者が推定した知行高からしても、『覚書』の記述は根も葉もない作り話とは思えないし、先の7月2日付の義光書状からも、利長が内陸部の山形と日本海側の庄内の連絡役を務めていたことが十分にありうると考えられる。

以上、やや長くなってしまったが、乏しい史料の中で、北楯利長を介して最上家中級クラス家臣の活躍を探ってみた。いまだ義光晩期と家親の内政や、最上家家臣団の研究が十分に進められない中、本稿が少し貢献できれば幸いである。

■執筆:胡 偉権(歴史家/一橋大学経済学研究科博士後期課程在籍生)


参考文献:
註1、最上家をめぐる人々♯28 北楯大学助利長 ./?p=log&l=197094
註2、北館文書2号、『山形市史 資料編1 最上氏関係史料』山形市、1973年
註3、北館文書4号、同上
註4、狩川八幡神社文書5号、同上
註5、狩川八幡神社文書9号、同上
註6、狩川八幡神社文書2号、同上
註7、「北楯氏先祖代々の覚」、『鶴岡市史 荘内史料集』1−下、109号、2004年
註8、上林職応『大堰由来記』、余目町史資料第二号
註9、狩川八幡神社文書10号
註10、狩川八幡神社文書11号
註11、『山形市史 資料編1 最上氏関係史料』363ページ
註12、北館文書5号
註13、本間美術館所蔵文書、『山形市史 資料編1 最上氏関係史料』山形市、1973年
註14、北館文書3号