最上家をめぐる人々♯27 【下次右衛門/しもじうえもん】:最上義光歴史館

最上家をめぐる人々♯27 【下次右衛門/しもじうえもん】

【下次右衛門/しもじうえもん】 〜一城の主となった降将〜
   
 人間を人間として大切にする……。最上義光は、その点において驚くべき思想の持ち主であった。そもそも、罪なき民衆が命を失う戦いを好まなかった。戦っても相手を殲滅するやりかたを彼はしなかった(谷地・寒河江・八ツ沼)。逃亡を黙認した(天童・鮭延)。戦後処理には、弱者への配慮を惜しまなかった(谷地・寒河江)。傷ついた部下に対する見舞状をしたためて、称賛し激励した(現存文書)。「地下人をも家士同然にせられける」とは、義光と敵対した上杉方の評価である(越境記)。一般民衆を家臣同様に扱ったのである。「その性寛柔にして無道に報いず。しかも勇にして邪ならず」と、『中庸』を出典とする言葉で義光の人間性を語った古文献もある。彼は人を活かそうとした、持てる力を発揮させようとした。野辺沢満延、鮭延秀綱、北楯大学、みなそれである。
 上杉の降将下次右衛門も、義光によって見出され、力量を発揮した人物だ。
 そして、この人物を語るには、志村伊豆守光安との友情をも語らねばなるまい。
  *  *  *
 慶長5年(1600)9月、関ヶ原を主戦場とする「天下分け目の戦い」が起こった。 義光は奥羽諸大名を率いて上杉攻撃を命じられ、準備態勢をととのえているところへ、上杉は先制攻撃をかけてきた。総勢2万とも4万ともいわれる大軍が、怒濤の如く最上領へ侵攻する。総大将は、米沢城主直江山城守兼続である。その率いる主力部隊は、9月13日に白鷹山中の畑谷城を攻め落とした。江口五兵衛ら守備兵は全員討ち死にした。
 ほぼこの前後に、上杉方は最上方の主な出城ほとんどを占領していた。2日後の15日に、兼続は長谷堂城を目前にした陣中から僚友秋山伊賀あてに手紙を書いた。

「去る十三日に、最上領畑谷城を乗り崩し、撫で切りを命じて、城主江口五兵衛父子をふくめ、五〇〇余りの首を取った……」

 「撫で切り」とは「皆殺し」。老幼、婦女子構わずすべて切り殺せと命じたのである。恐るべき殺戮である。もちろん、戦いは残虐行為そのもので、最上兵の場合も仙北(現秋田県南部)柳田城を攻めたときの地獄絵図のごとき残虐さは『奥羽永慶軍記』に詳しい。ただし義光については、このような命令を出した事実は知られていない。
 兼続は、つづけて「庄内のわが軍も、白岩・寒河江まで占領して、そこに在陣中だ」と書いた。庄内から進出した一隊は、尾浦城(後、大山城)から六十里の峠を越え、一隊は酒田から最上川筋沿いに山形を目指し、寒河江、白岩、谷地の城に陣取った。
 このとき、谷地城を占拠したのは下次右衛門であった。下はここで兵を休めつつ、総大将兼続から山形城攻撃の命令が出るのを待っていたのである。ところが、兼続が山形城にかかる前に片付けようとした長谷堂城は、志村光安らの激しい抗戦で落城せず、半月近くも日が過ぎていた。
 9月末、関ヶ原で石田方敗軍の報せが着くと、兼続は撤退を開始し、最上軍の猛追撃を振りきって米沢へ帰還した。だが、このとき彼は大将にあるまじき大失態を演じた。谷地城で兼続からの命令を今か今かと待っていた下のところへ、何の連絡もしなかったのだ。できなかったというほうが正確かもしれない。
 下の軍勢は、状況を知らされずに、最上領内に置き去りにされたのである。谷地城は、最上軍に幾重にも包囲された。
 下は「城を出て戦い、討ち死にするこそ武人の大義」と覚悟を決める。
 一方、義光は志村伊豆守を呼んで命じた。
 
「次右衛門は、小身ながら武勇の誉れ高き者、説得して降参させよ。味方にして、庄内 攻めの案内者にせよ」

 伊豆守は単身、谷地城に入って、次右衛門を説得する。
 
「直江殿は、すでに会津へ帰国なされた。義をつらぬきこの城で戦って死すことと、妻子ある幾百の兵の命と、いずれか重き。城を開いて降伏し、義光公に仕えられよ」

 熱誠こめた勧告に心を動かし、次右衛門は義光の軍門に下った。おそらく武人同士の厳しい応酬がなされたはずだ。この経過で強い信頼が芽生えたのであろう。下軍はほどなく庄内攻めの先鋒となって尾浦城を落とし、翌年四月、酒田城の戦いにも功名をあらわす。 戦いが終わってから、義光は次右衛門に田川郡尾浦(大山)城1万2千石(最上家中分限帳)を与え、対馬守を称させた。元は上杉家でわずか400石だったのが1万2千石、一城の主となり、80石だった一門の者たちも、みな千石の領地を拝領したという。異例の加増であった。
 これ以後、下対馬と志村伊豆は、たずさえあって庄内発展に力を尽くすことになる。 
 慶長7年に義光はさらに由利郡(現秋田県南部)を得て57万石の大大名となる。
 庄内も由利も新たな領地である。戦いに倦み疲れた民心を安定させ、生産を高めねばならぬ。製塩、漁業など山形では今までなかった新しい産業もある。港を整備して海上の通運や交易も考えねばならぬ。さまざまな課題を解決し、領国の安定と発展を図らねばならなかった。
 その実務者として、川北・酒田と遊佐には志村伊豆、川南の田川には下対馬が登用されたのである。敗軍の降将、下次右衛門を義光はこのように信頼し厚遇したのである。なお、大宝寺城(鶴ケ岡)は直轄として城代を置くことになった。
 以後両人は、義光の意思を体して、数々の事業をなし遂げる。青龍寺川の開削にかかわった可能性もある。彼の所領がこの疎水の恩恵を蒙っていることからの推定である。ただし、確証は得られていない。史料不足で施策の具体相を知ることはむずかしいが、下の名は志村とともに庄内の神社仏閣などで見ることができる。
 慶長10年(1605)、金峰山本社の建立が義光の発願で行われた。奉行として工事を監督したのが、志村、下の両人だった。山上には重要文化財建造物の「釈迦堂」があり、棟札によれば大旦那は源義光、工事監督は志村光安と下秀久(名はあとで改めたらしい)となっている。
 このような神仏に関わる事業を、義光の意を受けてなしてきたわけだが、それらのうち最大の事業は、なんといっても羽黒山五重塔改修工事だったろう。塔の創建は平将門という伝説をもつ日本第9位の古塔である。高さは29メートル。南北朝時代に改修されて以後200余年たち、塔は荒れていた。名だたる修験の霊地、出羽国最大の信仰の霊場。義光の発願には、切なるものがあったであろう。
 義光はこの工事の奉行として、志村・下を任じた。工事期間ははっきりしないが、2〜3年はかかったと見てよいのではあるまいか。かつて敵味方となって戦った志村と下は、固い友情と信頼で結ばれていたのであろう。それを見ていたからこそ、義光は大役を2人に任せたのであろう。慶長13年7月、五重塔は完成した。
 塔の最上層の屋根に、金属製の九輪が立っている。その基礎のブロンズ造の露盤には、137の文字が彫り刻まれ、その中には主君義光とともに、志村と下と、2人の名前が並んでいる。(全二十八行。/は、行替え)

  大泉庄/羽黒山/瀧水寺/塔之修造/
  大檀那/出羽守源義光/時之執見/志村伊豆守光安/下対馬守康久/(中略)
  于時/慶長十三戊申/稔文月七日/

 「執見」は「執権」で、つまり実務責任者である。
 今、鬱蒼たる杉林の中に立つ五重塔を見上げる善男善女のうち、どれほどの人が戦いで相対した2人の武人に思いを馳せるだろうか。
 3年後の慶長16年7月に、下対馬は鶴ケ岡の椙尾神社に石鳥居を建立寄進した。わざわざ越前北の庄(福井)から運んだものである。だいぶ苦労があったと見えて、
 「懸命に努力した誠の心は、決して空しくあるまい。天長、地久、この地に豊かなにぎわいがもたらされるよう祈る」という意味の言葉が、石柱に彫り付けられている。
 志村伊豆守光安は、同16年8月に亡くなった。次右衛門としては、兄を失ったような気持ちだったろう。主君義光も、同19年正月に山形で没した。
 そして、下対馬守康久は、その年6月1日、鶴ケ岡城下で突如一栗兵部グループに襲われて、思いもかけない最期を遂げた。志村光安の嫡子、酒田亀ケ崎城主光惟もまた、この時に殺害された。
 まるで、その後の最上家の運命を予告するような事件だった。 
■■片桐繁雄著